◆揮毫


雨の日の重い空気の室内に墨の香が漂っていた。
「いいもんだな、墨の香りは」
長官室のソファに座った大石が墨をする磯貝の手元を覗き込む。
「私は習字の手習いの時間を思い出して、ちょっと嫌なんですけどね」
せっせと墨をすりながら磯貝がつぶやいた。
「なんでだ、おまえは字が上手じゃないか? 先生に褒められこそすれ、叱られたことはないだろう?」
「それがですね、いじめっ子がいましてね。私はよく顔に墨をつけられまして、墨が口に入ったこともありますよ」
磯貝は当時を思い出したのか口をへの字にして墨をすり続けた。
「喧嘩両成敗だと言って、いじめっ子も私も先生によく文鎮で尻を叩かれました」
「習字道具で尻を叩くとはけしからん師匠だな」
大石が笑った。
「まったくです。……しかしこれはいい硯だ、端渓ですね」
滑らかな使い込まれた由緒ありげな硯を磯貝は褒めた。
「ほう、おわかりになりますか。古端渓、清代のものですよ」
富森が目を細めて微笑んだ。
彼には多少骨董趣味もある。
「墨もこれは相当なものだな?」
大石は墨をする磯貝の手元に注目した。
富森は笑って答えない。
きっと値の張る逸品なのだろう。

じつは大石が書を所望されたのである。
すげなく断るのも都合の悪い相手からで、朝食後の課業開始までの空いた時間にさっさと書いてしまおうとしているのだった。
大石も一応は文箱を持ってはいるが、普通の筆と墨であまりいいものではない。
「なんでしたら、私がお貸ししましょう」
そう艦長が言ってくれたので、彼の厚意に甘え書道具一式を借りることにしたのである。
「総長だってかなりな悪筆だ、べつに下手でも構うまい」
墨をする磯貝を見ながら大石が富森に話しかけた。
「常在戦場、ですか」
富森が微笑む。
「まあ下手でもいいという見本だな。気が楽と言えば楽だ」
「で、なんと揮毫されるのですか?」
「そうだな、実践躬行とでも」
「え?」
大石の言葉に磯貝が墨をする手を止めて顔を上げた。
なんだか小学校の教室に貼ってありそうな標語だな……そう磯貝は思った。
「なんだ、変か?」
「いえその、長官のイメージと少し違ったものですから」
「じゃあ、どんなのがいい?」
「なんとなくもっとスケールの大きいことを書かれるのかと」
「ふうん、そんなものか? 八紘一宇とでも書きゃいいのか?」
「ええと、それは」
磯貝は酢を飲まされたような顔をした。
日本書紀から採ったけっこうな言葉だが、前世の日本軍の蛮行を思い出させる。
「じゃ、至誠奉公にしとくか」
「東郷元帥ですか」
今度は富森が異議を唱えた。
「至誠奉公、終始一貫。東郷元帥が練習艦隊に書き与えられたお言葉ですが」
「ご名答。じつはそれは俺の期の遠洋航海だったんだよ。言葉自体に異論はないだろう?」
大石がにやりと笑う。
「そりゃま、東郷元帥のお言葉ですから」
富森はひげを捻って引っ込んだ。
前世ほどではないが、この後世でも照和9年に死去した東郷元帥は神格化に近い扱いを受けていた。
「磯貝、おまえちょっと手本にするから書いてみろ」
大石は長官室の絨毯の上に座り込んで紙を広げた。
「そんな、ダメですよ、ご自分の字で書かれなきゃ」
磯貝は墨をする手を止めて慌てた。
「なに言ってる。おまえを呼んだのは墨をすらせるためだけではないのだぞ。司令部一の能書家だろうが」
「しかしですね」
「いいから書け。なにも丸写しはせんよ。参考にするだけだから」
大石は笑って絨毯に広げた紙を指差した。
「はあ」
納得いかない顔つきながら、磯貝は墨を拭くと墨置きにそっと置いた。
「富森さん。あなたも散々揮毫はなさったクチでしょう。コツの伝授をお願いします」
大石は富森に笑顔を向けて教授を請う。
「文字のバランスさえ取れていたら、そこそこ立派に見えますよ」
そんな前世のときのことを持ち出されても……富森は苦笑しながらもアドバイスをした。
「ふむ、そんなものかな」
「いままで揮毫をされたことはなかったのですか?」
富森が不思議そうに尋ねた。
「ない。色紙どまりだな」
大石のことだ、片っ端から断ったのだろう。
もともとがサービス精神旺盛な人なのに、書はお嫌いなのか……富森は微笑んだ。

「絨毯にじかに置いて、墨が写りませんか?」
紙の前に座り込んで磯貝が首を捻った。
「構わんさ。下に写っても拭けばいいんだし」
磯貝の脳裏に雑巾を手にゴシゴシ絨毯をこする気の毒な従兵の姿が浮かんだ。
「で、実践躬行と至誠奉公。どちらを書けばよろしいんでしょうか?」
「やっぱり実践躬行で頼む」
何を思ったのか、大石がニヤッと笑った。
「……承知いたしました」
ため息混じりに磯貝が答えた。
「あの、何枚か練習させてもらっても」
「ああ、紙ならたくさんある。遠慮するな」
大石はにっこり笑って請け負った。
「では失礼して……」
磯貝は筆を取った。

ソファに座って大石と富森は筆を振るう磯貝を見ていた。
大石はテーブルに片肘をついてあごを乗せながら、富森はきちんと背筋を伸ばし膝に両手を置いて行儀良く。
磯貝は真剣な眼差しで書に取り組んでいる。
(ふふ、磯貝め、かわいい顔をしよって)
大石の頬がほころぶ。
富森を見ると彼も目を細めて磯貝を見守っている。
(富森さんの書も立派だが、彼に頼んでもまずはぐらかして手本は書いてくれんだろうからな)
大石は視線を富森から磯貝の筆に移した。

「これでよろしいでしょうか?」
何枚か書き終えた磯貝が顔を大石に向けた。
「気に入った作品は出来たか?」
大石はソファから腰を上げ、磯貝の書を並べて鑑賞する。
「ふむ、さすがにうまいもんだ。どうです、富森さん?」
「伸び伸びと素直な良い書ですな」
富森が微笑む。
「おかげでいい手本が出来た。ご苦労、磯貝。艦長、もう少し道具をお借りしていていいかな?」
「ええ、どうぞお使い下さい」
富森と磯貝は一礼すると長官室を退出していった。
「さて……」
大石はひとりになるとあらためて磯貝の書を眺め、しばし考え込んだ。
(あのチャーチル卿に渡すんだ、俺がわざわざ苦手な書を書いてやることもないか……あの嫌味な男、どうせあれこれ品評するに違いないからな)
「これにするか」
一枚の書を選ぶと大石は横着にもその書の余白に自分の落款をでかでかと付け加えた。
(……磯貝には申し訳ないがな)
インチキではあるが、立派な書が出来上がった。
(実践躬行……あのタヌキに贈るにふさわしい言葉だろ?)
大石は言葉の意味をチャーチル卿に説明してやるときのことを思ってほくそえんだ。
どうやら大石はチャーチル卿が嫌いらしい。
(さあ、厄介な仕事は終わった!)
大石は晴々とした顔で後片付けに取り掛かった。
ふと大石はいたずら気を出し、余った墨ですらすらと磯貝の書の反古に落書きを描きつけた。
……チャーチル卿の似顔絵であった。
なかなかに特徴をとらえていてうまい。

チャーチル卿に渡された書は後の世に伝わっていないが、この落書きは数十年後に日の目を見ることになった。
後片付けを手伝った従兵がこの反古を大事に持ち帰っていたのである。
余談ではあるが、後世の江田島の教育参考館には大石のこの落書きも展示されているという。