◆きのうの薔薇
窓の外を木枯らしが吹き荒れている。
ときおり射していた日が雲間に隠れ、大石の手元が薄暗くなった。
大石はちらと窓の外に視線を走らせた。
青空もまだ少し見えているが、雲がだんだん厚くなってきたようだ。
また天気は下り坂になるらしい。
大石はひとり書斎に閉じこもって、戦地から持ち帰った私物の整理にあたっていた。
戦後処理も一段落し、大石もようやく後回しにしていた片づけ物に時間を割く気になったのだ。
マーガレットは風邪ぎみで、今日はおとなしくベッドで休んでいた。
屋敷の誰もが臥せっている女主人を気遣って話し声も足音も潜めている。
大石も彼女の邪魔にならないように、午後はずっと書斎で過ごすつもりでいた。
覚え書や書類の整理もようやく片付き、大石は最後に残った行李に取り掛かった。
この行李には長官私室の机の引き出しの中身をそっくり納めてある。
象牙細工のペーパーナイフ、エナメルの飾りのついたペン軸、吸い取り紙、骨董品店の領収書の束、文鎮……。
従兵の手を借りずに大石が自分で詰めたものだから中は混然としているが、この行李には他人に触られたくない大切なものが、文房具の下に隠すかのように納められている。
英国王室からのクリスマスカード。
封蝋のついた女王からの私信。
そしてこの小箱の中身は……ピンクの薔薇のマーガレット。
大石は甘い記憶の宿る小箱の蓋をそっと取った。
小さな箱に納められたバラの蕾。
もはやその薔薇に命はない。
色褪せてカサカサになった薔薇の形骸には、大石の恋の思い出だけが宿っている。
――きのうの薔薇はただその名のみ、むなしきその名をわれらは持つ。
ホイジンガの詩の一節を大石はなぜかふと思い浮かべた。
あの頃、まだ旭日艦隊がスカパフローを泊地としていた頃――この薔薇に想いを封じ込めて、大石はふたりの恋に終止符を打つつもりでいた。
うかつにも女王の恋を受け入れてしまったとはいえ、いくら考えてもこの恋は実りがたいものだった。
無理な恋などはじめから受け入れるべきではなかったのだ。
そう、理非はわかってはいても……。
……すべてはあの日、本心を打ち明けてしまった自分が悪い。たとえ、女王に泣かれても耐えるべきだった。
当時の大石はあの日の自分を思い出しては、自己嫌悪に陥ったものだ。
……今ならまだ間に合う。陛下のお気持ちもいつかは癒える。
そんな気持ちでなんとか別れを切り出して、綺麗に身を引こうとしたこともある。
だが、女王を前にしてしまうとそんな殊勝な決意もあえなく崩れ果ててしまう。
女王の瞳に向かい合えば、別れなど口にできなくなる。
また泣かれたりしたら……たぶん大石は耐え切れないだろう。
卑怯だが、手紙で詫びるしかない。
もう二度とお目にかからないと。
大石は文箱の底から、二つ折りにされていた書きかけの便箋をそっと広げてみた。
深夜、眠れないまま女王に宛てて書いた別れの手紙だ。
……静かな波音が単調に響く、スカパフロー泊地。塗料の臭いがまだ残っていた、建造間もない日本武尊の私室。
深夜の長官私室の情景と共に、恋しい人に別れを告げようとしていた自分の悲愴な心情が切々と甦ってきた。
大石は当時の自分に向かい合うような感傷を覚え、ゆっくりと文面を目で追った……。
最後の行が滲んでいるのは、思わずこぼした苦い悔悟の涙だったか……。
何度も書きかけては、筆が止まり、また破り捨て……。
忙しさに紛らせるようにして、一日伸ばしにしていた別れの手紙だった。
この便箋も書きかけたまま……やがて大石は女王を思い切れなくなってしまう。
所詮、女王を突き放せるほど大石は非情に徹しきれない。
女王を諦められるほど、淡白でも無欲でもない――
初冬の午後の薄暗い書斎で、大石は恋の来し方を振り返っていた。
とうとう書きあげられなかった別れの手紙を手にしたまま、大石は感慨深げにため息をついた。
……もしこの手紙を書き上げていたら、そして女王に渡していたら、ふたりの運命はどう変わっただろう?
「旦那さま、海軍省からお電話です。お居間にお繋ぎしましょうか?」
書斎のドアの向こうからの女中の声に、大石は物思いから我に返った。
「いやいいよ、下で出る」
眠っているマーガレットを気遣って大石は答え、便箋を行李の上に置いたまま書斎を出ていった。