◆草の上で3


俺はまた夢の草原に座っていた。
白樺の堅い幹に凭れて、梢を渡る風に耳を澄ます。
柔らかな萌えだしたばかりの青々とした下草が風に波打つ。
この清々しい空気と緑の大地……俺の心身が一番欲しているものだ。
ああ、これがすべて俺の病んだ精神が作り出した幻であったとしても、こんな景色の中に身を置けるのはなんとありがたいことだろう。
まさに、夢のよう、だ。
俺は新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
緑の草をちぎって口にする。
口中に広がる草の汁の青苦さも懐かしい。
頬を撫でる風に小鳥の声、柔らかな木漏れ日、俺は幸せだ。
俺ひとりがこんな息抜きをしていて、なんだか他の乗組員に申し訳ないな……俺がそう思ったときだ。
林の向こうから人の気配がした。
俺は目を凝らす……半そでの開襟シャツの男……口ひげを生やした……。
「なんだ、入江じゃないか」
俺はガッカリした声を思わず上げた。
毎日見ている、見飽きた顔を何も夢でまで見たくない。
「あ、前原司令……」
きょとんとした顔で入江が木立の中に立ち止まった。
「あの、私はどうしてここへ?」
不審げな顔をしてぱちくりとまばたきをしている。
「いいからこっちへ来い」
来てしまったものは仕方がない。
俺は入江を手招きした。
入江はまだ呆然として立ちすくんでいる。
しようがないやつだ、予想外の事態にあまり対応力がないとみえる。
「来いったら」
少し苛立った俺の声に、入江はすぐさま反応してスタスタと歩きだした。
日頃から彼は俺の命令に従順な男だ。
「ここに座れ」
俺は自分の隣を指差す。
「は」
入江は一礼すると、言われたとおりに腰を下ろす。
不安そうにまばたきを繰り返してはいるが、あえて質問は差し挟まない。
腑に落ちないことがあっても、俺の部下たちは俺の言うことに従うようになっている。
開戦以来培ってきた信頼と絆の賜物だと俺はいいように解釈している。
まあいい、入江。
おまえもストレスが溜まっているだろう。
ここで俺と一緒にゆっくりしていけばいい。
俺は細長い草の葉を一枚ちぎると、また口にくわえた。


「あの司令……」
「なんだ?」
「ここはいったいどこでありますか?」
緊張した入江の顔を俺は見返す。
陸軍兵士のようなしゃちほこばった口調は緊張したときの彼のくせだ。
なんでも中学のときの配属将校がひどくおっかなかったらしい。
ん? ということは俺もおっかないということか?
俺は部下を怒鳴ったりしたことは一度もないぞ……?
「ふふ、どこだと思う?」
俺はできるだけやさしく微笑んで、彼に聞き返してやった。
「はっ、あの、私には上高地かどこかに思えるのでありますが……そんなわけがありませんよね」
自分で言っておいて、入江は赤くなって俯いている。
「入江の故郷は信州だったかな?」
「いえ、甲州です」
「そうか」
こんなに長い間一緒にいながら、俺は入江のことを何も知らなかったことに気がついた。
「俺は鹿児島だ」
「えっ?」
入江が意外そうに目を剥いた。
「なんだ? 変か?」
「いえ、意外だったものでして」
「入江も鹿児島県人はみんな西郷さんみたいな顔をしていると思ってるんだろ?」
「いえ、そんな」
入江が慌てて否定する。
どうやら図星だったか。
俺が九州の産だと言うと、十人が十人とも意外そうな顔をする。
みんながみんな、色黒で濃い顔つきばかりとは限らないぞ。
たしかに俺の女顔は郷里ではひどく目立ったがな……。
「俺は鹿児島といっても薩摩じゃない、大隈だ」
「はあ、そうでしたか、いや驚きました」
入江は目を大きくして俺の顔をまじまじと見つめる。
こうしてみると、入江も黒目がちで可愛い顔をしている。
俺が笑いかけてやると、彼はまた赤くなって俯いてしまった。
なんだ、口ひげなんぞ生やしているわりに可愛いじゃないか。
ひげを生やしている男というのは、存外照れ屋で可愛い男が多いのかもしれん。
あ……そういえば俺が付き合った男はみんなひげがあったな。
高杉さん、坂元さん……総長以外はみんなひげがあるじゃないか。
俺は別にひげ男が好きというわけでもないんだがなぁ。


「ここがどこかと言うとだな……」
俺が言いかけると入江はしゃんと背筋を伸ばして話を聞く態勢をとった。
艦内じゃないんだから、そんなに緊張しなくてもいいのに。
「……どこでもない」
「は?」
入江はきょとんとして聞き返す。
「強いていえば夢の中だ」
「は? 夢の中と申しますと……これは夢なんで?」
「そうだ」
「いやしかし」
入江は自分の頬をつねって見せた。
「痛いであります」
そう言って入江は指跡の付いた頬を俺に示した。
夢だと言われて頬をつねるか。
教科書どおりの素直な反応をするやつだ。
俺は片手を伸ばして、入江の反対側の頬もつねってやった。
「あっ」
「どうだ、痛いか?」
「……痛いであります」
「しかしだな、痛みがあるからといって夢でない証拠にはならんぞ」
「はぁ」
俺につねられた頬を手で押さえて、入江は呆然としている。
戦闘時にはこんな顔は見せたことがないのにおかしなやつだ。
「では、夢だという証拠はどこにあるのですか? 司令」
途方にくれたように質問する入江の顔があまり可愛かったので、俺はふと悪戯ッ気を出した。
「普通じゃありえないことが起こるというのはどうだ?」
「……と、言いますと?」
意味がわからないでいる入江に俺はにやりと笑いかけた。
「たとえばだな……」
俺は入江を抱き寄せるとキスをしてやった。


一瞬、俺を拒否するように入江の体が強ばったが、彼は抵抗をしなかった。
全身の力を抜いて、俺のなすがままになっている。
キスを深くしながら様子を見ると、どうやら感じているようだ。
入江、おまえ……。
開襟シャツの上から肌をなぞってみると、明らかに反応がある。
シャツの上からでもはっきりとわかる胸の突起に触れてやると、入江がびくりと身を震わせた。
おまえって、感じやすいんだな……。
「夢でもなきゃ、俺がこんなことをするわけないだろ? な?」
入江の耳元に俺はそう囁いてやった。
「これは夢なんだ、わかるな入江……」
耳元にかかる息にも感じているのだろう、真っ赤になった入江はこくこくとうなずいて見せた。
ふふ、可愛いやつ。
俺は完全にその気になって、入江を柔らかな草の上に押し倒した……。