◆原の休日


「なんだこれはーっ! バカか貴様はーっ!」
報告書をたたき返して、航空参謀をそう思いっきり怒鳴りつけてやりたかった。
しかし原は大きく息を吸い込むと、ぐっとその衝動をこらえて机の上にその報告書をいったん置いた。
一度や二度ならまだわかる。
何度同じような事を言わせるんだろう、この男は。
(落ち着け……気を静めるんだ。相手は新米の参謀じゃないか……それに俺の説明が足らなかったのかもしれない……感情的になってはだめだ……)
深呼吸を原は繰り返し、怒りの発作を鎮めようと努力した。
「あの……?」
提出した報告書をろくに読みもせず黙り込んでしまった上司に、磯貝はたまらずに不安そうな声を掛けた。
じろり、と原が磯貝を睨む。
図体だけでかい表情の鈍い男が、机の前に立ってもじもじとしている。
「航空参謀。俺が命じたのは両作戦の比較検分であって講評ではない。わかるか?」
「はぁ……?」
間の抜けたいかにも鈍い反応に、原のこめかみがピクリとひきつった。
(怒るな……こいつは大学校を出てまだ一年も経たんのだ。しかも参謀は未経験ときている……我慢しろ……)
原は深く息を吸い込むと痛むこめかみをそっと手のひらで押さえた。
「何度も言うが、こういう場合、意見書という形をとってもらっては困る。あくまでこれは資料として提出するものだ」
原はできるだけトーンを落として、噛んで含めるような調子で教えにかかる。
表情は平静さを装ってはいるが、伏し目になった長いまつげの陰には苛立ちと怒りが煮えたぎっていた。
しかし目の前の航空参謀はそんな原の危険な様子にも気がついた風がない。
彼は生真面目な熱心さで、また自分の意見を繰り返すのだった。
「は。でありますから航空用兵の観点から具体的に両作戦の是非を――」
「是非ではだめなんだ! それは貴様が判断することではない!」
――バカ野郎! この前から何度も口がすっぱくなるほど言ってるだろう!
原は胃がきゅっと痛くなるのを感じた。
「いいか、航空参謀。参謀の職務をはきちがえるな――」
原の声はこれ以上低くならないほど、怒りでオクターブが下っていた。
それなのに表情の鈍い、目の前の大男はうすぼんやりした顔つきで原を見下ろしている。
(ああもう!)
席を蹴って出て行きたいのを我慢して、原は諄々と参謀の心得と報告書の書式について説いて聞かす。
(こんな青二才がなぜ先任参謀なんだ? 特例で上げ底の大佐になってはいるが、ほんとなら少佐にすぎん……)
原の胸の内で磯貝に対する不満と怒りが出口を求めてのた打ち回っていた。
こいつは大学校を出たばかりで実務経験もろくにない。
報告書の書き方から教えなきゃならんのか?
こんな兵棋演習の答案みたいな生意気な青臭いレポートを提出しやがって!
――原は無意識のうちに、執務机の下で手のひらに爪の痕がつくほど強くこぶしを握り締めているのだった。


『優秀な若手を選んでおいた。活きのいい頭の柔軟な若手ばかりだ』
にこにことそう彼に胸を張って言った高野の顔を、原は恨めしげに思い出していた。
あれは旭日艦隊の編制がほぼ固まりつつあった照和二十年の春、料亭の一室で高野と差し向かいで飲んだ夜のことだった。
高野は上機嫌で杯を含みながら「部外秘」の判が押された書類を原に手渡した。
旭日艦隊司令部の編制表だった。
参謀長として「原元辰大佐」という文字が一番上にあった。
参謀勤務は何度となくこなしてきた原ではあったが、艦隊参謀長は初めてだった。
ついに就くことになる参謀長の大役が晴れがましくて、原は書類に書かれた自分の名前にしばらく目を留めていた。


『ああ、X中佐が作戦参謀を務めてくれるんですか。こいつは助かります』
幕僚の名簿を一瞥して原はほっとしたように頬を緩めた。
Xとは以前一緒に仕事をしたことがある。
有能な気持のいい男で、彼が先任参謀として自分を補佐してくれるのなら大助かりだ。
『X中佐もだが、こいつもきっと役に立つぞ』
高野は杯を置くと、原の手元をのぞきこみ三番目の名前を指した。
『航空戦術では若手随一の切れ者だ。戦局の捉え方に独創的な閃きがある』
原は名簿から顔を上げると、高野ににっこりと微笑みかけた。
『総長がそこまでおっしゃるとは……心強いですね』
帝国海軍の航空戦力を育て上げた高野五十六が太鼓判を押すのだ――磯貝正久、というあまり聞いたことのない名前ではあったが、航空戦術はすべてこの男に任せてもいいか……原は漠然とそのときそう思ったのだった。
ところが蓋を開けてみると――この磯貝という男はどんくさいぼんやりした男で、参謀という仕事の何たるかもわきまえない、素人同然の役立たずだったのである――


「俺はあのとき胃が痛くなった。航空参謀が参謀としてまるっきり役立たずなんだからな」
さわさわと少しひんやりとした風が野原を渡ってくる。
イーサの浜風に揺れるルピナスの穂先を見やりながら、原は当時を思い出していた。
磯貝は原から少し離れて花の中にあぐらをかいて座っていた。
彼の肩の高さにルピナスの青い花が風に頭を揺らしている。
見渡す限り、一面の花畑だ。
磯貝は青い花の中に寝そべる原を見た。
原の茶色い瞳が花の影から静かにほほえんでいる。
「役立たず……」
少し不服そうに磯貝は原の言葉を繰り返した。
「そうだろうが」
茶色の瞳が磯貝に笑いかけた。


まだX中佐が先任参謀として間に入ってくれているときはよかった。
ところがカナリア諸島沖での海戦の後、彼は急な病に倒れて病院に後送されてしまった。
爾来、磯貝が先任参謀にスライドしてきてそのままになっている。
X中佐に次ぐ先任であった磯貝が、原の補佐をする先任参謀に繰り上がってしまったのだ。
経験不足のうえ生来粗忽で頼りない磯貝であるが、司令部内の最先任は彼なのだ。
磯貝を忌避することはできない。
原は補佐役のXを失い、磯貝というお荷物を受け取ったことになった。
磯貝ときたら、原の手間を増やすヘマばかり次々とやってのけ、しかもあまりこたえていない。
張り切って仕事をしようとしているのはわかるのだが……。
あのときから原の苦難と忍耐の日々が始まったのだ。


短い夏の間、アイスランドは花々で埋まる。
自生しているひなげしやルピナスが空き地という空き地を覆いつくす。
冬の間は白一色だった雪と氷の大地が、白夜の頃には見違えるように鮮やかになる。
原たちのいる海辺の野原から、白い万年雪を頂く内陸の山々が驚くほど近くに見えた。
空気に塵がほとんど含まれていないので、アイスランドでは遠くまで霞むことなく視界が利く。
手を伸ばせば届きそうな白銀の頂と深く澄んだ青い空……。
ひどく眩しいがどこか頼りない白い陽光は、ここが北極に近い国だということを如実に示している。
一面に咲く濃紫のルピナスの花穂に埋もれるようにして寝転びながら、原は苦難の日々を思い返す。
飲み込みが悪い、仕事が遅い、原本を一行飛ばして書き写しても気がつかない、統計資料が混じるともうメチャクチャ、まったくこんなに事務処理の不得手な参謀は見たこともない!
各艦長に配る命令書の印刷を裏表逆に刷り上げてきたときのことなど、今思い出しても頭に血が上る。
……しまいにはあいつの顔を見るだけで俺はひどくイライラしたっけ。


磯貝を指導し、磯貝が失敗するたび後始末に走り回り、自分の仕事をこなし、合間にまた叱りつける毎日に原はへとへとになっていた。
夜更けの執務机で残務整理をしながら、原は知らず知らず軍用鉛筆の端を強く噛んでいた。
鉛筆の尻にはっきりとついた自分の歯形に原は情けなそうな顔つきになった。
俺としたことが罪もない文房具に当たってしまった。
こんなみっともない鉛筆はかっこ悪くて使えないじゃないか。
自己嫌悪に陥りながら原はすまなさそうに鉛筆を二三度なでると引き出しの奥に仕舞いこんだ。
これというのも、あのバカ参謀のせいだ。
あいつをどこかよその司令部に放り出せないものか。
そうは思うが司令部の人事権は彼にはない。
長官に頼んでみようか。
そうも思うが、早々に幕僚を切り捨てたりすれば大石にどう思われるかと考えると、それもできない。
せめてあいつが自分から転属願いでも提出してくれたらなぁ……。
いや、そんな気遣いするような男なら最初から苦労はしない。
鈍いくせに、やる気と根気だけは人一倍あるものだから……。
原は深くため息をつく。
我慢するしかないのか? 我慢しながらあいつを再教育していくのか、この俺が。


人の良さそうな童顔をにこにこさせて、ルピナスの花穂越しに磯貝が笑いかけてくる。
……おまえ、わかっているのか? 俺はおまえが大嫌いだったんだぞ?
内心ではさっさと辞めてくれないかとまで思っていたんだ。
俺はおまえの面倒も見たが、邪険にしたことも、辛く当たったこともあったはずだ。
なんだってそんな風におまえは笑ってられるんだ?
「俺はおまえが嫌いだった」
当時の恨みつらみをこめて、原は磯貝の笑顔にそんな言葉を投げつけてやった。
さすがに磯貝は笑顔を引っ込めると困ったように眉根を寄せた。
「そんなはっきりおっしゃらなくても……」
磯貝は今にもクンクン鼻を鳴らしそうな顔になった。
原が密かに犬みたいだと思っている表情だ。
「ま、今はけっこう好きなんだが」
ちらりと磯貝の顔に目をやって、原はそう言い足した。
「……けっこう?」
磯貝はなんともいえない表情でじっと原を見つめた。
……よせよ、そんな顔して俺を見るのは……。
原はどうも雑種の仔犬に弱いらしい。
「いや今じゃ、かなり、かもな」
ぶっきらぼうに原がそう言い直すと
「あ、私はとても!です……」
そう言いさして磯貝は耳たぶまで赤くなった。
……なんなんだ、こいつは。
原は馬鹿馬鹿しくなってどさりと花の中に頭を倒した。
黒っぽく感じるほど高く澄んだ空を背にして、ルピナスの青い花穂が原の頭上で一斉に揺れた。
アイスランドの涼しい風は原の火照った頬もやさしく撫でていった。
花穂越しに、照れくさそうに頭を掻いている磯貝の四角い姿が見える。


花の中で黙って寝転がっていると、照れ隠しのつもりなのだろう、磯貝が小声で歌うのが聞こえてきた。
  みーんな一度は憧れた  たいへーいーよぉぉのー  黒潮をぉぉ
太平洋行進曲だ。
……へんなやつ。
原は苦笑した。
そして寝転がったままイーサの空を見上げた。
眩しいが少しも暑くない日の光。
氷の国の花畑。
磯貝が小声で歌う少し間の抜けた前世の軍歌。
……ヘンテコな休日になったな。
まあいい、しばらく戦争も責務も忘れてのんびりするか。
とりあえず、この場所を見つけて誘ってくれた磯貝に感謝しておこう。
――原はルピナスの群落の中で大きなのびをすると、ゆったりと微笑んでまぶたを閉じたのだった。