◆眠る青年
艦壁を叩く波の音も聞こえず、罐のうなりも響いてこない陸上のベッド……こんなところに一人で寝ていると不思議な気持ちになる。
港の夜の風が少しだけ開けた窓からそっと静かに忍び込む。
浜風と一緒に、深夜になっても眠らない夜の街の息遣いが途切れることなく伝わってくる。
擦り切れたレコードの流行歌が風に乗って切れ切れに届き、どこかの店で騒ぐ酔っ払いたちの哄笑が重なりあう。
富森は小さく吐息をつくと寝返りを打った。
――こんな夜は、すぐ横で眠っていた美しい青年のことを思い出す。
少し眉を寄せた、苦しげにも見えた寝顔を。
(あなたは夢の中でも幸せではないのだろうか?)
疲れ果てて眠る青年の吸う息、吐く息……。
ベッドでは何も身につけず、富森に寄り添って眠る前原の肌はいつもひどく熱かった。
寝顔に見とれていると、不意に前原が目を開けた。
「起きていたんですか」
ばつが悪そうな富森の言葉に答えずに、彼は淡く柔らかに微笑むと腕を富森の首に巻きつけた。
富森を引き寄せ、その目を真っ直ぐにみつめ……無言のまま唇を寄せる。
熱い肌、熱い唇。
うっすらと汗ばんだままの、若い健康な男の香り。
危険で美しい青年のなすがまま、おののきながらも富森は彼に自分をゆだねたものだ――
遠い昔のことなのに、消えない面影。
自分でも信じがたい過去だ。
同性に、ひとりの青年に心を奪われたことがある。
日米開戦の真珠湾で彼は死んだ。
彼自身があれほど熱望していた潜水艦勤務で戦死してしまった。
戦死にいたる状況は明らかにされていないが、彼はもはや英霊となった。
会うことはなくても富森は彼の配属先はすべてそらんじていた。
潜水艦勤務に戻り、潜水学校での最終講習も終え、潜水艦艦長として歩みだし、旧式艦から最新鋭艦へ。
ベテラン潜水艦艦長として地歩を固めた彼のことが、富森にはわがことのように嬉しかったのに、突然、士官名簿から消えてしまった前原の名前。
ずっと会わなかったせいか、前原の戦死をなかなか信じることができなかった。
どこか遠い海で、元気に生きているような気がする。
逢いに行かないだけで。
……ほんとうは逢いに行きたかったのですよ、ずっと。
だが富森は、立ち消えた恋にもはや自分から近寄ろうとはしなかった。
もはや自分は前原の過去の恋人のなかの一人にすぎない。
そう思っていても、富森は彼の寂しそうな目の色が忘れられなかった。
離れてはいても前原のことが気になっていた。
彼は幸せだろうか、新しい恋を見つけられただろうか、と……。
前原と別れてからの十五年間、世界は大きく変わった。
だが――髪はすっかり灰色にはなったが、富森は変わらない。
黙々と艦の上で暮らし、多くを語らず……。
前世の記憶から今も富森は自由になれない。
彼の心の半分は失われた前世の記憶に囚われたままだ。
今も心のどこかで元の世界に還りたがっている。
部下の将兵が眠る南の海で、何も考えずにただ静かに横たわっていたかった。
……適応性がないのだろうな、私という人間は。
眠れぬままに、富森は深々と吐息をついた。
こういう眠れない夜はつらい。
もう会えない人たちのことが次々と思い出される。
前世に残してきた家族、共に海底に沈んだ部下。
そして、前原。
この世で出逢いながら、半ば自分から断ち切った縁。
一度ぐらい、連絡を取ればよかった。
苦い後悔が残る。
きっと前原は待っていたのではないか。
そう思うと心が痛む。
……私はあの人に中途半端に手を差し伸べて、結局逃げてしまった臆病者だ。
のこのこと逢いに行けるわけもない。
だが……私はあなたを忘れられない。
今もあなたに惹かれている、怖いほどに。
自分が自分でなくなりそうなほどに。
すうすうと寝息を立てる青年。
枕に半ば頬を埋め、苦しげに眉を寄せた表情が目に浮かぶ。
裸の逞しい肩、引き締まった背。
ベッドの片端に前原のそんな在りし日の幻影を追ってみる。
あなたは本当にもうこの世界にいないのか?
もうどの港を尋ねても、あなたの姿を求めることはできないのか?
悔恨。
恋慕。
慟哭。
苦い感情ばかりが胸の奥を疼かせる。
こんな夜は辛い。
酒ではだめだ。
酒に酔っても記憶は消えぬ。
錆びた鉄と藻の腐った臭い。
生温かな潮風が港の臭いを運んでくる。
港の臭いはどこも同じだ。
宿の窓にまで届く突堤の灯台からの光が闇に慣れた目には眩しい。
「何を見ているんですか?」
同じようにベッドから半身を起した幻影がそう語りかけてきた。
在りし日の彼の口調そのままに。
うっとりとした、どこか甘えた前原の低い声。
「きっと私には見えないものを、あなたは見ているんでしょう?」
幻影は言葉を続ける。
「あなたはいつも独りだ。どうしてですか?」
ほんのりとした笑みには寂しげな影があった。
――どうして? 富森には答える言葉がなかった。
富森は再びベッドに身を沈めた。
夜はまだ深い。
こんな夜は苦い思いが繰り返し訪れて富森を眠らさない……。