◆逃げ水
前原はゲストルームのドアを開け、通路へ出た。
やりきれない気分をどこかで変えたかった。
……富森艦長。彼に会いたい。
十数年ぶりに彼を見ても控えめな微笑を送るだけだった富森艦長。
あの穏やかな目は彼を見ても何も語らなかった。
前原は無性に富森と話したかった。
「入れ」
彼のノックに艦長の懐かしい声が答えた。
「前原です」
そう名乗って彼は艦長公室のドアを開けた。
何か書類を作成していた富森は驚いたように顔を上げた。
が、思いつめたような前原の顔を見て、ふと心配そうに眉を寄せた。
「前原司令……お体はよろしいのですか?」
富森は机の前から離れ、前原の前に立って彼の顔を心配そうに覗き込んだ。
「まあ、どうぞお掛け下さい」
富森は応接セットのソファを指した。
まったく落ち着いた、まるでふたりの間に何事もなかったかのような応対だ。
……寂しい。あなたには何の感慨もないんですか? 懐かしいとも思ってくださらないんですか?
前原はがっくりとソファに崩れるように座り込んだ。
「だいじょうぶですか?」
変わらぬその声。
いや、ますます浮世離れしたというか、不思議な調子の声だ。
前原は目を上げて富森を見た。
「……迷惑ですか? 私がここに来るのは」
辛そうな表情。
傷つきやすそうな瞳。
「迷惑なわけがない。逢えて嬉しい。あなたが生きていてくれてよかった。亡くなられたものと思っていたあなたにどう対応していいかわからないのですよ」
「すみません。私が生きていることは誰にも知らせなかったんです。大石長官にも……」
「長官はたいそうお喜びでしたよ。どうなさったのです、やっと長官に逢えたんじゃありませんか」
「逢えば逢ったで辛いんです」
前原は情けなさそうに泣き笑いの表情になった。
「進歩がないんですよ、私は。……再会したとたん、こうして性懲りもなくあなたのところに愚痴を言いに来ました。やっぱり迷惑でしょう?」
「いいえ……」
まるで仙人のような顔をして静かに微笑むと、富森は湯茶の準備にかかった。
茶筒から煎茶を出す富森の背中は真っ直ぐで肉付きも昔とそう変わりはない。
(どうしてこんなにふけて見えるのだろう?)
髪が以前よりだいぶ白くなった。
それと……?
隠居のような表情のせいだろうか。
わざと老け込んでみせているような感じがしなくもない。
大石と二つしか違わないのに十も違うようだ。
前原に背を向けて茶碗や茶托をかちゃかちゃと用意する富森。
不思議と会話がなくてもほっこりとくつろいでしまうような雰囲気。
一緒にいるだけで心が休まるような気兼ねのなさは今も変わらない。
「富森さん」
背後からそっと呼びかけてみる。
「……はい」
「好きですよ、いまでも」
ガチャ、と富森が茶碗を滑らした。
「……人がお悪いですな、相変わらず」
「うふふ」
「茶がこぼれますから、おかしなことは言わんで下さい」
富森は急須から茶碗に煎茶を注ぎ分けながら言った。
「もうじき夕食です。お昼はたしか食べられなかったとか」
茶碗を前原の前においてやりながら富森は彼を気遣う。
「長官がひどく心配しておいででした。今日一日は休養させてやれというお達しを一同に言い渡されていました」
たしかに大石は心配して見舞いにまで来てくれた……。
「なんにせよ、水分だけはしっかり取らないと身体に毒ですよ」
富森は茶を勧める。
「いただきます」
前原は茶碗に行儀よく手を伸ばした。
「あつ……」
小声でつぶやき、そっと茶碗を吹く動作に富森は微笑む。
旅順でジャスミンティーを注文したときもそうだった。
「猫舌でしたね」
「え? そうですか?」
「煎茶ですからそう熱くはないはずですが」
「……私には熱いけどなあ」
前原が少し唇を尖らしてみせる。
彼がふと見せる無防備で無邪気な表情。
富森の胸に懐かしさがこみ上げた。
「あなたという人は……」
富森は言葉を切って微笑んだ。
前原のこの表情にどれだけ振り回されたことか。
人をさんざん心配させて。
人の気持ちをさんざんもてあそんで。
人の心を迷わせる不思議な澄んだ瞳をして。
前原は富森の言葉の続きを待っていた。
……私は? あなたにとって私は?
しかし、息を詰めて待っていても富森は微笑むばかりで何も言わない。
ずるい人だ、あなたは。
いつだってあと一歩というところであなたは立ち止まってしまう。
どんなに待ってもけっしてこちらに踏み込んでは来ない。
逆にどんなに追いかけても、なぜか心の距離は縮まらない。
あなたはただ微笑んでいる……。
「逃げ水みたいだ」
前原は眼を伏せてつぶやいた。
「けっして渇きを癒せない幻の水なんだ」
「なんのことです」
前原は答えなかった。
沈黙が続いた。
カチコチという置時計の秒針の音だけが艦長室に響いていた。
「……お茶が冷めましたよ」
「あ、ああ。……これなら私でも飲めますよ」
少し悲しそうに笑ってみせると前原は茶を一口で飲み干した。
「……うまい」
「おかわりを淹れましょうか」
「あ、もういいです」
前原が制した。
「ほんとうに……」
前原は富森の手を押さえた。
富森の動きが止まった。
「富森さん……」
人の心を量るのも言葉を投げかけあうのももどかしかった。
焦りだったのかもしれない。
昔の恋人の心を量ることができなくて、一足飛びに昔の関係に戻りたかったのかもしれない。
寂しかった。
彼をもっと感じたかった。
夢中で彼に抱きつき、甘えかかるように顔をうずめる。
「わかりません。大石さんがいるというのに」
「いけませんか。あなたに慰めを求めてはいけないのですか」
「……」
「好きだからあなたが。それだけではいけませんか」
「こんな年寄りにおよしなさい」
「ひどい。あなたはそうしてすぐ逃げるんだ」
前原は顔を上げた。
謹厳な表情を崩さない富森。
しかし誰よりも情け深い富森。
こうしてじっと懇願するように目を見つめていれば、彼のほうが折れることを前原は知っている。
現に彼は目を逸らし、困ったようにふっと笑った。
「逃げたりしませんよ」
富森は前原を優しく抱き返してやった。
前原は安心したように目を閉じて身を彼に委ねた。
課業終わりのラッパの軽快な旋律が艦内に響く。
「このまま、あなたと過ごしていてはだめかなあ」
「夕食の席にも出ないでですか? 長官が心配なさいます。そしてあなたが部屋にもいないとなると、艦内捜索をされかねませんよ」
「……捜せばいい」
「私と一緒のところを見つかるんですか? いやいやそれはちょっと」
「……ふふ」
前原は軽く笑って両腕を富森の首に巻いて縋りつく。
「だいぶ、ご機嫌が直ったようですね」
「ええ。あなたに冷たくされたらどうしようかと思っていました」
私があなたに冷たくする?
できっこないのは先刻ご承知でしょう。
わかっていてあなたは……
富森は彼の澄んだ瞳を見つめる。
蒼く澄んだ瞳が微笑む。
「夕食なんかどうでもいいんだけどなあ」
「どうでもよくありません」
「出なくてはいけませんか?」
「出たほうがいいでしょうね」
「じゃあ出ます……だから、いいでしょう?」
悪戯っぽいコケティッシュな前原の微笑。
(いったいどういうつもりなのか……)
富森にはわからなかった。
前原は微笑んだまま富森にくちづけた。
昔と変わらぬ前原の熱い唇。
性急で熱いくちづけの仕方も昔と同じだった。
「わけがわかりませんよ、私には」
照れくさげに前原の視線を避けて富森はぼやいた。
「ふふ。やっばり今でもあなたが好きだってことです」
悪戯っぽく笑いながらも前原の瞳は澄みきっていた。
「……かないませんな、あなたには」
富森はもう一度前原を抱き返してやった……。