◆能面〜続き


その日の午後、長官室にはいつものように大石の淹れたコーヒーの香りが漂っていた。
客である原は、その細身の身体をソファーに深く沈め、今頃は必死で作戦命令書を手直ししているであろう磯貝のことをぼんやりと思い浮かべていた。
「……磯貝がこのまま順調にキャリアを積んでいくと、いずれは艦隊参謀長の任に就くことになるんでしょうね」
「なんだ、突然」
驚いたように大石が顔を上げて、原の表情をみつめた。
コーヒーカップの湯気の向こうに、原の長いまつげが物思わしげに瞬いている。
「磯貝はどんな参謀長になるでしょうね……」
「磯貝が参謀長……」
ふたりの頭の中に事務能力の欠如したチーフを頂いて、てんてこ舞いする幕僚たちの有様がいやにリアルに明滅した――
「いやいや、適材適所というか、そのなんだな、俺は人事部の采配に万全の信を置いているぞ」
大石はぎこちない笑みを浮かべた。
「でも、知らないってことは、怖いことですからね……」
何かを含んだような、ため息混じりの言葉を原は洩らした。
……そんなことを言って長官、あなたは高野総長の推薦を丸呑みにして、磯貝を幕僚に加えたんでしょう? あんなトロいやつだと知っていても、あいつを貰ってきましたか?
そんな言葉が喉元まで出かかったが、原は賢く言葉を飲み込んだ。
……でもなんとかなるのかな、磯貝なら。将来どんな役職に就こうが、あいつの不得意分野を引っかぶってやるお人よしがきっと出てくるはずだ……俺みたいな。ま、それもあいつの人徳みたいなものか……。
原はひとりコーヒーの湯気の影で笑みを洩らした。
これも悟りの境地かもしれない。

そんな原の笑みをどう見てとったのか、
「将来、君が長官になったときにどうかな、磯貝を参謀長に貰っては? ……スリリングだぞ、きっと」
そう言って大石はいたずらっぽくウインクして寄越した。
「それだけは勘弁願います」
原は思わず渋面を作った。
「そうか? わははは……」
……暢気な人ですね、長官あなたは。
大石の魅力的な快活な笑顔を見ながら、原はより現実的なことに思い当たっていた。
もし原に万が一のことがあれば、先任参謀である磯貝が参謀長を代行することになる。
……長官こそ磯貝を参謀長にする覚悟は出来ているんですか? 笑ってる場合じゃありませんよ――ま、関係ないか、この人には。参謀長も作戦参謀もまとめて副官扱いだからな。

幕僚に諮ることなく作戦行動を命じたりする万事型破りな長官ではあるが――どういう形であれ原は大石のそばで働くことに生きがいを感じていた。
だからこそ彼は、大石の奇策と現場のギャップを埋めるべく、日夜膨大な書類と取り組み続けている。
自分というまめな女房役がついていなければ、名将大石率いる旭日艦隊とて、これほど円滑に行動できないと原は自負していた。
……あなたにとって私は便利な実務屋なのかもしれませんが、それだけじゃないと思いたいんです。
いつまでも笑っている長官に、少し拗ねたような気分になって、原は試すような視線を投げかけた。
「……長官はなぜ、私を参謀長に指名されたんです?」
「君をそばに置いときたかったからさ」
間髪をいれずそう答えると、テーブルに頬杖をついたまま、大石が甘く微笑みかけてきた。
真面目な質問のつもりなのになぶるつもりかと、原の切れ長の目が咎めるように大石を睨んでみせた。
「またそういうことを!」
「うん、いわゆるひとめぼれってやつかな」
大石のまなざしからフェロモン過剰な視線がじんわりと放射されてくる。
冗談めかして言ってはいるが、その強い目の光で大石の本心が半分以上含まれているとわかる。
「……なに言ってんですか……」
自分から言い出しておいて、大石のまなざしと言葉に原はすっかり動揺してしまった。
危ない物言いをわざとしてくる大石に、腹立たしい気分半分、そわそわした気分半分。
抱きすくめるような大石の視線から逃げるように、原はぎこちなくソファーに座りなおすと、テーブルの上のコーヒーカップに手を伸ばした。
こころなしかそんな参謀長の顔が少し赤いようだ。
……男をからかってなにが面白いんですかっ!
そう言いかえしてやりたいが、言えば何と返ってくるか、だいたい想像がつくだけに言う気にもなれない。
まったく大石は手に負えない上司だ――横紙破りで、大胆で強引で、どうにも熱くセクシャルで。
原はこれ以上大石にみつめられていたら熱が出そうだった。
彼はコーヒーを口にして態勢を整えると、さっさと話題を変えにかかった。
「……今日のコーヒーは格別に美味ですね」
いつもの原の戦略的退却である。
「ん? わかるか、今日は豆を荒めに挽いて量を多めにしたんだ。いつもよりさっぱりしてまろやかだろう? やっぱりわかってくれるんだな、さすが原くんだ――」
原の褒め言葉に、大石は我が意を得たりとばかりに身を乗り出した。
「――いいか、コーヒー豆は粗く挽くと酸味が勝ち、細かく挽き過ぎると薬臭くなる。上手いコーヒーを淹れるコツは豆の挽き方にもあるんだ。均一に挽かないと酸味と苦味が混じって味の印象がどうしても雑になるからな――」
コーヒータイムはやはり平穏なほうがいい。
そうこうするうちに、磯貝の書類も出来上がってくるだろう。
大石のコーヒー談に聞き入りながら、原はほっとした表情で革張りのソファーに再び深々と身を沈めるのだった。