◆悪寒 〜続き
いったいどういうことなのか、得心がいかない。
なんで、あの磯貝が。
あの気の弱い磯貝が。
上司である原の書類を机から引ったくり、断固とした態度で原を私室に押し込んでしまった。
……ああ、頭が痛い。関節が痛む。悪寒がする。
原は低くうなった。
……やめだやめだ、あいつのことなんか考えるとよけい頭が痛くなる。
原は熱っぽいため息をつくと毛布にくるまった。
しかし、どうしたわけか足先が氷のように冷たくて眠れない。
冷えがつま先から背骨にまで這い伝ってくる。
高熱の出る前兆だ。
……いかん。本格的に風邪にやられた。
そのまま一時間ほど眠れずに震えていただろうか。
熱が出始めた原の耳にノックの音が響いた。
「……参謀長?」
遠慮がちな磯貝の低い声だ。
……またか。
原は悪夢の続きを見さされるような心地がして、返事もせずに目を閉じた。
「参謀長?」
ドアを開けたのだろう、磯貝の声がさっきより明瞭になった。
「眠ってられるんですか?」
今度は真上から聞こえたその声に、原はぎょっとして目を開けた。
磯貝が許しも得ずに室内に入り込んで、心配そうな顔をしてベッドの原を覗き込んでいる。
……こいつはほんとに磯貝なのか?
原は自分を見下ろす磯貝の顔を初めて見るようにじっと見上げた。
きゅっと引き結ばれた口許やいかつい顔の作りは一見凛々しいが、きょとんと見開かれた誠実そうな二重の目は一生懸命な子犬のようだ。
……やっぱり磯貝だ。
熱に潤んだ目で原が安心したように微笑んだ。
「あの、熱は? ……失礼します」
そう断って磯貝は原の額に手を置いた。
図体のわりに小さな磯貝の手は、ふんわりと肉厚で柔らかい。
温かな手のひらが原の額から、頬、首筋に移っていく。
「あれ、冷たいですね? 喉も脹れてないみたいだけど」
すっと喉に置かれた温かな手が心地よかった。
「温かいな」
磯貝の手を引き止めるように、原は彼の手を掴んだ。
「寒いんですか?」
磯貝の目がやさしく笑った。
「艦長が生姜湯の粉末をお持ちだったから、今分けて頂いたんですよ。お飲みください」
「ん……」
盆ごと艦長の部屋から持ってきたのだろう、原の机の上に見覚えのある大ぶりな湯飲みが湯気を立てていた。
「どうしたんだ、おまえ? 俺がおっかないんじゃなかったのか?」
「そんな……参謀長は病人ですからね。怖がってちゃ、よくなっていただけません」
「ふうん……」
……そうやって普段からしゃんとしていてくれれば、俺もイラつかなくて済むんだがな。
自分に向けられた原の目がひどく素直に見えたので、磯貝はどぎまぎしてしまった。
ベッドからまつげの濃い切れ長の目がじっと自分を見上げている。
「どうも寒気がするんだ。ベッドが冷たくて眠れない」
磯貝の手を自分の喉に押し付けたまま、原は元気なく目を閉じた。
「それはいけませんね。湯たんぽ……医務室ならあるかもしれない、ひとっ走り行ってきます!」
「いやいい。おまえの方が温かそうだ」
原は気持ちよさそうに磯貝の手を握りしめた。
「え? 私が湯たんぽになるんですか?」
「ふふ、馬鹿。……生姜湯をくれ」
「あ、湯飲みを」
「いや、起きる。寝たままではこぼしそうだ」
原はベッドにゆっくりと起き直った。
「うう、嫌な寒気がする」
寝間着の衿を原はかきあわせる。
(寒気って……冷やしちゃいけない……湯たんぽを……ええーい!)
上着のホックを手早く外すと、磯貝は上着を脱いで原の肩に着せ掛けた。
「あ、おい」
磯貝の体の温かみがホンワリと残る上着を肩にかけられて、原はくすぐったそうな顔になる。
「そんな……いいのに」
「熱いですよ、はい」
ワイシャツになった磯貝は机の上の生姜湯を原に手渡した。
原は手の中の湯飲みに視線を落とした。
生姜の匂いは鼻が利かないのでわからないが、温かな飲み物はうれしい。
磯貝の親切も、照れくさいがうれしい。
湯飲みを原に渡すと、磯貝はベルトをガチャガチャいわせてズボンを脱ぎだした。
「おい、なんのまねだ?」
原は驚いて顔を上げた。
磯貝は答えずに、きゅっと唇を引き結んだまま、ワイシャツのボタンも外しだした。
「おい、何で服を脱ぐんだ?」
「湯たんぽになるんですよ」
「本気にするな、馬鹿、服を着ろ」
「馬鹿で結構ですよ、どうせ」
ワイシャツも脱いでランニングとズボン下だけになると、磯貝はベッドの毛布をめくった。
「では失礼して」
「おいっこらっ」
慌てる原の横にもぐりこみながら、
「生姜湯、こぼさないでくださいよ」
磯貝はどういうわけか、今日はまったく落ち着いたものだ。
……なんだかなぁ。
ベッドの中に磯貝がいる。
足元が磯貝の体温で急に温かくなった。
「生姜湯で温まりました?」
毛布の端から顔だけ出して磯貝が尋ねた。
「ああ、美味かったよ」
コトンと湯飲みを床に置く。
「おい、もういいよ。帰ってくれ」
「私は湯たんぽですからね、お気遣いなら無用です」
「おまえなぁ……」
「足、もっとくっつけていいですよ。冷たいんでしょう?」
「ん……」
狭いベッドでは既に足は触れ合っていた。
「すまん、つめたいだろ」
磯貝は笑ってかぶりを振った。
なんとも窮屈だが、人肌の温かみが快い。
「なあ、磯貝」
原は天井を見上げながら話しかけた。
長い濃いまつげが、ゆっくりとまばたきしている。
「子供の頃、犬を布団に入れて寝たことがある」
原の声には今まで聞いたことのない柔らかな響きがあった。
「ペスって名前の雑種だったよ。……ノミが移ると親に怒られた」
「……私はノミは飼ってませんから、ご安心を」
「馬鹿。そういう意味じゃないよ」
磯貝に笑いかけた原の表情は少年のように可愛かった。
ふと磯貝は自分が原の兄になったような気がして、くすぐったくなった。
「おとなしく寝てくださいね、風邪っぴきなんですから」
「こいつ偉そうに」
「寒気は治まりましたか?」
「いや……さっきよりましだが」
「いけないなあ……ちょいと失礼」
磯貝が原を腕に抱いた。
「!」
「……あったかいでしょう、このほうが」
たしかに温かい。
……どういうわけだろう、この磯貝の変わり様は?
不思議で仕方がなかったが、原はそのまま目を閉じた。
磯貝の身体は温かいし、クッションとしても抱き心地がいい。
……ああ、気持ちいいなあ。
寒気が治まって、体が徐々に温まっていくのがわかる。
磯貝の胸は日なたの干草の匂いがした。
「明日は一日寝ていてくださいね」
「そうはいかん……」
「急ぎの書類があれば私が枕元でお読みしますので」
「いや、俺がいないとどうにもならん」
「そうですかね。一日ぐらい参謀長なしでやっていけますよ。何人部下をお持ちかお忘れですか?」
原は答えずに磯貝の胸に軽くため息をついた。
……一人前なことを言うやつだ。まあいい、今日は黙って聞いておいてやる。
「長官がお帰りになるまでに治っていただかないと、長官がお困りになります」
「うん……」
「風邪気味だから残れと、きつくおっしゃったんでしょう? 長官は」
「そうだ」
「なら、ちゃんと養生しておかないと」
「うん……」
……おまえに説教されるなんてなぁ。俺も焼きが回ったよ。
だんだんと眠気が原に忍び寄ってきた。
目を閉じたまま、原は眠たげな声で磯貝に問うた。
「おまえ、本当に磯貝か?」
磯貝はちらりと自分にもたれて気持ちよさそうな原の顔を見た。
「いいえ、私はペスですよ」
「馬鹿……」
くすりと笑うと、原は微笑んだまま、素直に磯貝の胸に頬を乗せた。