◆王冠を賭けた恋



「何を言い出されるのです!」
「いいえ! 私は本気です!」
マーガレットは大石の言葉をさえぎった。
「あなたはご自分の重大な責務をどうなさるのです!」
「退位いたします。妹のメアリがおります」
「そんな……!」
「例のないことではありませんわ! 伯父のウィンザー公は王位よりも恋を選びました。わたくしが同じことをしてはいけない道理はありません!」
「陛下……どうか……お聞きください」
大石はマーガレットをなだめようとそっと彼女の手を押さえた。
膝の上で握り締めていた手に大石のがっしりしたてのひらを感じて、彼女は口を閉じた。
「どうか冷静になってお考え直しください。あなたはご自分の将来をどうなさるおつもりですか」
大石はマーガレットの顔を覗き込むようにして、諭すような調子で言葉を続けた。
「ご即位されてもう何年にもなるあなただ。君主のお仕事が嫌になりましたか?」
マーガレットは力なく首を横に振った。
先ほどの勢いもどこかに行ってしまった……大石が相手だとどうしても主導権をとられてしまう。
「そんなに簡単に王位を放棄するような義務感の薄い方ではないことは私も存じてます」
このまま大石に説得されてしまいそうな予感にマーガレットは涙ぐんだ。
……情のこわい方!
「提督のお気持ちがわからない……」
マーガレットの泣き出しそうなつぶやきに大石はどきりとした。
……泣かれると困る。


「……」
「……」
重苦しい沈黙が二人の間に訪れた。
大石の引っ込めようとした手の甲にポツリと涙が落ちた。
「……!!」
大石は動揺した。
マーガレットが顔を上げた。
栗色の睫毛に涙がかかっている。
大石の困惑した表情と目が合うと青い瞳に見る見る涙が盛り上がってきた。
「陛下……」
大石はなすすべもなく彼女の頬につたう涙を見ていた。
聡明そうな青い瞳とつんとしたかわいい鼻、花びらのような唇。
マーガレットが泣いている……。
大石は不憫さに胸が締め付けられる思いがして、たまらず彼女を抱き寄せた。
抱き寄せた肩のなよやかさ、きっちりと結われた髪と細いうなじ……。
彼の肩口に顔を押しあてて泣くマーガレットに大石の心は乱れた。
彼女の白い額に唇をつけたくなる衝動を大石はかろうじて抑えた。
事の重大さを思うと恋を得た嬉しさよりも困惑が先にたつ。
「泣かないでこっちをごらんなさい」
大石の沈んだ声にマーガレットは顔を上げた。
叱られた子供のように涙をいっぱい大きな瞳にためている。
女王の威厳をどこかに置き忘れたような可憐な表情に一瞬大石の自制心が吹き飛んだ。
「ああもう! 困った方だ!」
怒ったように言うと大石はいきなり腕に力をこめて彼女を抱きしめた。
突然の抱擁にマーガレットは驚いて息を呑んだ。


「……お願いですからもう泣かないで下さい」
息詰まるような抱擁を解かれ、穏やかな声にぎゅっと閉じていた目を開けると大石が少し照れたような笑みを浮かべていた。
「ご気分は?」
微笑みながらも少し心配そうに大石は尋ねた。
「……ありがとう。平気です」
少しはにかみながらマーガレットは涙の残った目をぱちぱちと瞬いた。
……さっきの抱擁はなに? この方はもう平然として……。
「提督……」
「なんですか?」
「提督はまだお答えになってません……」
「何をです?」
「ひどい方! 提督のお気持ちをまだうかがっておりませんのに。私の気持ちなら申し上げましたわ。大石さまの妻になれるのなら王冠も惜しくありません」
マーガレットはしゃんと面を上げて大石を見返した。


「……よろしいでしょう、私も率直に申し上げます。無理です」
大石はソファから立ち上がりゆっくりと歩いた。
「大英帝国の君主が退位となれば歴史に残る大事件になります。政治的な影響も大きい。世論は? お国の対日感情は?」
「国難の真っ只中、英本土を失いかねない防衛戦争の真っ最中なのですよ。いくらなんでも時期が悪すぎます」
「あなたの国民への義務、私の艦隊への義務。どちらも放棄は許されません。たとえあなたが退位しても女王だった事実は消えない」
「私の妻になってどうするのです? 日本においでになるのですか? 私は軍務以外に興味はないし、あなたは宮殿の暮らししかご存じない」
「無理な理由はまだまだ山ほどあります。私の気持ちなんぞお聞きになってどうなさるのです?」
たたみかけるように大石は強い調子で言葉を続け、そして不意に言葉を切った。
重苦しい沈黙が再び訪れる。
大石はマーガレットに背を向け、その表情は伺うことができない。
マーガレットは大石の言葉の調子の激しさに身動きもできずに目を見開いていた。


長い沈黙の後、大石は振り返りマーガレットの目をまっすぐに見つめ静かに言葉を継いだ。
「おわかりになりませんか? 初めてお目にかかったときからお慕い申し上げております。自分の身分も立場もわきまえず、天をも恐れぬ不相応な恋心を陛下に抱いております。……さあ白状いたしました」
言い終わると大石は自分を恥じるように目を閉じた。
マーガレットは思いがけない成り行きに声も出ず、ただ大石を見つめている。
大石は眉根を寄せた厳しい表情で無言のまま瞑目していた。


大石は目を閉じたままフッと笑うと自嘲した。
「この年になっても恋とは愚かしいものです……あなたに何も求めるつもりはなかった。あなたの幸せを祈るだけで満足できるはずだった。なのに……」
唇の端を皮肉っぽく歪めて自分を哂うと彼は不意に目を開きマーガレットの視線を捉えた。
「陛下……降参いたします。私もただの恋する男です」
口元は笑ってはいても大石の目の色はきつく真剣だった。
「こちらへ……陛下」
大石はマーガレットの瞳を真直ぐに見据え、手を差し伸べた。
マーガレットは魅入られたようにふらふらと立ち上がり大石の前に進んだ。
大石はマーガレットの両肩に手を置き彼女の心を読み取ろうとするかのように青い瞳をのぞき込んだ。
「陛下、今後あなたと二人きりのときは王冠に遠慮いたしません。よろしいですか?」
マーガレットはかすかにうなずいた。
「陛下……マーガレット……心から愛しています……」
大石の真情のこもった深い声がマーガレットの心に染み渡り、彼女の胸にゆっくりと勝利の凱歌が沸き起こる。
「……もう二度と言いませんからね」
大石は照れ隠しであろう、怒ったような小声で付け加えた。
マーガレットはそんな大石に優しく微笑みかける。
……ついに言わせたわ! 強情な大石提督に愛の言葉を。
マーガレットは優美な微笑を口元に残して目を閉じ、大石の唇を待ち受けた。