◆不出来な弟〜続き
そう思い立って甲板へのラッタルに向かった原は、通路を俯きながら歩いてくる磯貝に出くわした。
(こいつ、まだこんなところでウロウロしていたのか)
何か考えごとでもしているのだろう、磯貝はまだ原に気づかずにノロノロと歩いてくる。
磯貝の薄ぼんやりした姿を見て、原は好戦的な気分がふつふつと沸いてきた。
「おい」
原は磯貝に低く声をかけた。
磯貝は文字通り飛び上がった。
ぎょっとした顔で原を見、磯貝は助けを求めるかのように左右を見た。
(ふん、俺が怖いのか。きょろきょろしていったい誰の陰に隠れようってつもりだ? 長官か? 艦長か?)
磯貝の怯えようは原の好戦的な気分にさらに火をつけた。
「磯貝、ちょっと付き合え」
磯貝の目がまん丸になる。
「は、どちらへ」
「いいから来い。それとも俺とじゃ嫌か?」
原の目が意地悪く光る。
「いえ、めっそうもありません! お供します!」
「ついてこい」
原は磯貝を連れて甲板へ向かった。
外は風が少し強かった。
風は塩を含んで重く、じっとりと湿っていた。
「何もおまえを海に突き落とそうってわけじゃないんだ。そう怯えんでくれ」
原は少し笑うとまた黙って夜の海を眺めた。
不安げな様子の磯貝も原の横に並んで海を見ている。
ふたりはしばらく押し黙って海を眺めていた。
磯貝の態度をなじろうという原の好戦的な気分は、夜の海を見ているうちに消えてしまった。
くしゅん! と磯貝がくしゃみをした。
(こいつはくしゃみまで犬みたいだ)
原はおかしくなった。
「なあ、磯貝」
磯貝が顔だけ原に向けた。
「おまえ、俺がそんなに嫌いか?」
磯貝の目がまた丸くなった。
「そんな、とんでもありません! ご、誤解であります!」
真剣な表情で磯貝が必死に言った。
「じゃあ、なぜ俺を避ける」
「そ、それは……」
磯貝は口ごもった。
「なんだ、はっきり言え」
「参謀長は私をご覧になると不快になられると思ったからであります」
「ふうん、それでこそこそ逃げていたってわけか」
「はい」
原は息を吸い込んだ。
「ばかやろう!」
思いっきり怒鳴るとなぜか気分がすっきりとした。
「こそこそ逃げられるほうがよっぽど不快だ! そう思わんのか、おまえは!」
「しかしっ! 顔を見せるなと参謀長はおっしゃいました!」
「なんだと!」
原に負けずに磯貝が言いつのる。
「嫌っておいでなのは参謀長のほうです! 私なんか嫌われても仕方ありません! そんなにお嫌いならクビにでもなんでもしてください!」
磯貝は顔を真っ赤にして叫んだ。
「おまえ、言っていることが無茶苦茶だぞ」
原は呆気に取られてつぶやいた。
「どうせっ、私はばかやろうですから!」
「……おまえ、酔ってるな……」
原は今になって磯貝がなぜ廊下をノロノロ歩いていたか理解した。
こいつは酒に弱いのだ。
「参謀長こそ、私を毛虫でも見るような目でご覧になるではありませんか! 今日だって、私を見て露骨に嫌な顔をされたきり無視なさいました!」
「磯貝それは……」
「ばかやろうで結構であります!」
磯貝がやけくそのように海に向かって叫んだ。
「……おい、大丈夫か?」
原はそれほど酔っているように見えない磯貝が心配になってきた。
「……多少廻ってはおりますが、意識は正常であります」
磯貝はしっかりした目と口調で原に答えた。
「そうか、ならいいが。……おまえ、いつもと違うぞ」
「そうでありますか?」
「ああ……」
ふたりはまた海を見ながら黙り込んだ。
くしゅん! とまた磯貝がくしゃみをした。
「寒いか?」
原は磯貝の横顔を見て言った。
磯貝は口を尖らしてふくれたような顔をしている。
「いえ……酔いが醒めてきたようであります」
海を見たまま磯貝が答えた。
「酔い醒めは風邪を引きやすい。戻ろうか?」
原は心配そうに磯貝を気遣った。
「いえ、平気です」
「いやに突っ張るなあ」
原は苦笑した。
磯貝と二人並んで夜の海を見ていると、いままでの心のしこりが溶けていくような気がした。
「俺はおまえを嫌ってなんかいない。俺こそおまえに嫌われたと思ってたんだぞ」
暗い海に目を戻して原は本音を口にした。
不思議と心の中の言葉を自然に口に出せた。
「……」
「磯貝、どうした?」
原は手すりに顔を隠してしまった磯貝を覗き込んだ。
「あ、泣いてるのか、おまえ」
「……」
磯貝は手すりに突っ伏したまま首を振った。
磯貝が涙もろいのは今に始まったことではない。
原は構わず言葉を続けた。
今でないともう言えないような気がする。
「おまえのことを俺は出来の悪い弟だと思っている。だからおまえに腹を立てることはあっても、嫌いになったりはしない」
原は横の磯貝に目をやった。
磯貝は突っ伏したまま、鼻をスンスンいわせている。
(……大の男がまったく。おまえってやつは)
原は手のひらで磯貝の肩をぽんぽんと慰めるように叩いてやった。
磯貝の嗚咽がひどくなった。
「おまえってやつは本当にしようがないな」
呆れたように優しく言うと、原はそのまま磯貝の肩に手を置いた。
(俺もアルコールが入っているんだな……)
そう思いながらも原自身なんだか胸がじんわりとしてきている。
原は磯貝のごつい肩を抱いてやりながら、ほろ苦い顔で夜の海を眺めていた。