◆旅順〜続き
ふたりは並んで司令部を後にした。
何を話せばいいのかわからない。
言いたいことがあるはずなのに、言葉にならない。
要港司令部の門を出て、ふたりは東港に向かって無言で歩いた。
旅順の街は燦然とした朝の光を浴びて一幅の絵のように美しかった。
大通りに沿って整然と立ち並ぶアカシアの街路樹。
白い日傘を差して歩み去る和服の婦人。
騾馬に曳かせた満人の荷車がゆっくりと通り過ぎる。
通りの脇にはサンザシの飴煮や饅頭を売る屋台がぽつぽつと店を出している。
石造りの重厚な建物の間を縫うようにツバメたちが忙しく飛び交う。
初夏を過ごしてアカシアの葉は日に日に色濃く、その葉陰からはかすかに甘い香りが漂っていた。
「ああ……ほら」
前原が頭上を指差した。
さわさわと柔らかな緑の羽根のようなアカシアの葉の影に、白い花房が見え隠れしている。
「花だ、アカシアの」
無邪気な声を前原が上げて、つぼみをつけた枝にそっと触れた。
「初めて見ました……話には聞いていたけれど」
前原はアカシアの花を見上げて微笑んだ。
まだ開ききらない白い小さなつぼみに混じって、ほころびかけた花をつけたアカシアもあった。
前原は目敏く花を見つけて富森に指し示した。
「ほら、あの枝がもう咲きかけています」
「ああ……」
彼の指差した枝を富森も見上げた。
並んでアカシアを見上げるふたりの面が葉陰に青く染まる。
「満開になればさぞや見事でしょうな……」
しみじみと花を仰いで富森がつぶやく。
そんな富森の横顔を前原は切ない思いで凝視した。
鼻梁の線の鋭い厳しい横顔。
思慮深い、どんなときも揺るがぬ瞳。
……行ってしまう、俺より先にこの旅順を去ってしまう。いやだ、俺はこのままあなたと離れたくない!
感情のままそう叫んで、富森の腕をつかんで引き止めたかった。
……いやだ、こんなにすぐ、こんなにあっけなく別れたくない!
「ここでいいですよ、見送りは」
富森はアカシアからゆっくりと前原に視線を移した。
前原の必死なまなざしには悲痛な叫びが渦巻いていた。
「……人の多い桟橋まで来てもらうより、ここで別れましょう」
富森の目が強い思いを込めて前原の瞳に語りかけた。
彼の言葉に前原の綺麗な顔がわずかに歪み、かすかに頷いてみせた。
「元気で」
万感をそのひとことに込めて富森は前原をしっかりと見つめ返した。
前原は唇をきつく引き締めて、かろうじて自分を制していた。
その蒼みがかった瞳には彼の声にならない感情がそのまま映し出されていた。
「……あなたも、富森さん」
絞り出すような低い前原の声に頷くと、富森は再び歩き出した。
富森の寡黙な真っ直ぐな背中が視界から消えた後も、前原はアカシアの木の下から動けなかった。
もう二度と会えない――そんな気がしてならなかった。
ぽっかりと心に穴の開いたような喪失感が前原を虚脱させていた。
この空虚な気持はなんだろう?
あのひとにとって俺はどれほどの意味があったのだろう――?
答えの感触をつかめないまま、富森は去ってしまった。
前原は陽炎の立つ大通りの果てをぼんやりと眺めた。
あのひとは行ってしまった、もう二度と会えない……。
今このとき、恋が終わったことを前原は直感した。
* * *
昨夜の嵐にアカシアの花びらが路上一面に散り敷いていた。
石畳のくぼみの水溜りに青空が映っている。
ひらひらとまた花が落ち、水面に波紋を作る。
ぱしゃ、と水溜りに踏み込んだ前原の靴先が水しぶきを上げた。
彼はアカシアの梢を見上げた。
葉先に残るしずくが朝の日ざしにキラキラと水晶のように輝いている。
濡れた葉にところどころ白い花びらが張りついて、昨夜の風雨の激しさを物語る。
緑の匂いと土の匂い、そしてむっとする暖かい空気。
夏の雨上がりの匂いだ。
歩道から前原は宿の窓を見上げる。
あの端のあの窓……いつも富森が取っていた部屋だ。
旅順を出発する前にもう一度あの窓を見ておきたかった。
緑の濃いアカシアの梢の上に見える、一番端の窓。
初めてあの部屋から富森を見送ったのは、若葉が芽吹く頃だった。
いつの間にか季節は移り、旅順は夏を迎えようとしている。
六月も今日で四日。
前原の軍装も数日前から白い夏服に変わっていた。
満開のアカシアを見ずに富森は旅順を去った。
今日、前原も旅順を出る。
(また来ることがあるだろうか)
わずか半年であったが、思い出深い旅順の街。
夏を迎えようとしている、アカシアの花が降る大通り。
旅順の街角の美しい眺めを前原は思いを込めてしっかりと目に焼きつける。
整然とした広い通りも、石造りの建物も、なだらかな丘陵に建つ表忠塔も。
雨上がりの西風が名残の花をはらはらと散らしていく。
感傷に満ちた眼差しで前原はアカシアの木を見上げた。
満開のアカシアをあなたと見たかった。
富森さん、あなたと……。
(未練……!)
前原は踵を返して坂を下る。
真っ直ぐ前だけを見据えて彼は軍港を目指す。
足早に大通りを横断し彼は建物の角を曲がる。
曲がるときに、ちらりとだけ彼は後ろを振り返った。
アカシアの並木に隠れて、もう宿の窓は見えない。
胸が痛い。
別れのときは堪えることの出来た涙が簡単に零れ落ちそうになる。
前原はきっと前方を睨み、唇をかんで早足で坂を下りた。
照和十年五月二十六日
富森正因海軍少佐
旅順発天津方面警戒並ニ居留民保護ニ従事 海軍省
照和十年六月五日
前原一征海軍大尉
旅順要港部副官被免、伊号第六十四潜水艦乗組被仰付 海軍省