旅順(八)〜続き
前原を抱きかかえたまま、富森は静かにベッドに身を倒した。
頬に前原の髪がひんやりとあたる。
どうしたのだろう?
おとなしい、しかし想いのこもったくちづけをしただけで、前原は元気なく黙り込んだままだ。
胸に抱きかかえていた前原の身体を、富森はベッドに優しく横たえた。
ベッドに並んで横たわり、富森は黙って天井を見つめていた。
何かわからないが、前原が話したくなれば話せばいい。
別にこのまま眠ってしまってもいい。
前原もまた黙って天井を見つめていた。
富森の沈黙は不思議と心が安らぐ。
前原は顔を横向けて富森を見た。
細長い口ひげが重みでやや下がっている。
真っ直ぐ天井を見上げている目は少し充血していた。
夜までかかった会合で少し疲れているのだろう。
富森の峻厳な横顔……潮に焼けた赤銅色の肌を持つ荒磯の岩のようなこの男が、こんなに情の厚いやさしい思いやりの持ち主だとは。
前原は富森の腕に手を触れた。
ワイシャツ越しにも堅い、筋ばった富森の腕にそのまま手のひらを乗せる。
目だけを動かして富森が彼を見た。
その穏やかな視線を前原は受けとめた。
「大石中佐をご存知ですか?」
思い切って前原はその人の名を口にした。
「大石……蔵良、ですか?」
思いがけない名前に富森は目をしばたたかせた。
「ええ」
「よく知ってますよ……一期上の先輩ですから」
年は富森のほうが二つ上だが、富森は他の学校を中退して受験したので大石の後輩になる。
もう軍人にはなるまいと一度は三高に進学したのだが、海軍への思いは断ち切れず、富森は江田島の門を前世に引き続きくぐったのだ。
江田島では同期生、先輩、そして教官の中にもちらほらと見覚えのある顔や名前が散見できた。
彼らがよしんば転生者であったとしても、富森のように早くから前世の記憶を取り戻している者は稀だったのか……確かめる気など富森には毛頭なかったが……誰も富森の正体に気づかないようだった。
大石もそんなまだ自覚のない転生者の一人だった。
富森のほうは一目で大石二号生徒が前世の大石大佐だと気がついた。
「大らかな陽気な人でしたね。今はたしか第二艦隊だとか」
「そうです、去年の冬から。……兵学校時代の恩師です」
「ああ……」
「親しくされていたんですか?」
大石の名に懐かしそうに目を細める富森に、前原は甘えるように問いかける。
「術科学校でも一緒で何かと世話になりました。しかし、それ以来会ってません」
富森は少尉時代、普通科学生として丸一年、大石と共に講義を受けた。
大石が前世の記憶を取り戻したのはあの頃のことだ。
(I長官ではありませんか……!)
そう言って彼の手をとり、涙を浮かべた大石の様子を鮮明に思い出すことができる。
生徒時分から大石は、喜怒哀楽の激しい涙もろい激情家だった。
前世の記憶を取り戻してから大石は、自分たちが転生した意味について富森とよく議論したものだ。
自分たちは何が出来るのか。
未来を変えることは出来るのか。
この後世では日本に前世の轍を踏ませたくない……中尉任官を前にして、そう熱く語っていた彼を昨日のことのように思い出す。
満州国を強引に成立させ、国際連盟を脱退し、前世と同じく戦争への道を歩んでいく後世日本……大石は今どんな心境であろうか?
富森の頬に浮かんだ苦しげな笑みとどこか遠くを見ている沈んだ目の色は、富森を別人のように見せた。
前原は困惑してそんな彼の顔をじっと凝視する。
前原の不安げな視線に気がつき、富森は目の色を和らげた。
「理想家肌で涙もろい、いい人でしたよ、大石さんは」
富森の言葉に前原はちらりと照れたような笑みを見せてうなづいた。
大石は理想主義者ではあったが、冷徹な視点を持つ一風変わった教官だった。
武官教官には珍しい長髪で、話し上手なユーモリストだった。
体力自慢で生徒と一緒に石段を駆け上がったりしていた。
教官官舎へ遊びにいくと自分で豆を挽いてコーヒーを淹れてくれた。
大石の日に焼けた笑顔が瞼に浮かんでくる。
尊敬する大石教官、密かに熱烈に恋焦がれた大石教官。
不意に涙がこぼれそうになって、前原は目をつぶった。
「そうか……大石さんが好きなんですね」
前原は目をつぶったままかすかに頷いた。
「それで大石さんはあなたの気持ちをご存知なのですか?」
「……いいえ。たぶん……」
「ふむ……大石さんを……そうでしたか」
顔を正面に戻して、富森は天井を眺めながら独り言のように呟いた。
思わぬ人の名を聞くものだ……富森は考え込む。
前原の思いは大石に届いているのだろうか?
「情けのわかる人でしたが……」
人の気持ちに鈍いところもある。
だいたいが気まぐれで、自分の関心のある事柄にしか注意を向けない。
大石のことだ、教え子が自分に恋をしているなどとは考えたこともないに違いない。
「あなたの気持ちに気づいていない可能性が大ですな……」
「そんなこと、私から言えるわけがない」
前原が目を伏せる。
「おやおや、私には簡単におっしゃいましたよ」
「すみません、そういうつもりでは」
「いやいや、これは余計でした。聞き流してください」
前原の慌てように富森が微笑む。
「ちがいますよ……」
前原は富森の胸元に額をつける。
「あなたなら私を受け入れてくれる気がしたからです……ええ、あなたの優しさに付け入ったんですよ」
前原は真っ直ぐに富森の目を見た。
「卑怯だと思うけれど、私は恥じてはいません……あなたがどうしても欲しかった」
富森の耳の下に前原は優しく手を差し伸べた。
「富森さん……怒ってますか?」
前原の真摯な目に富森は黙って首を横に振った。
「あなたに惹かれたのは、あなたが大石教官に似ていたから。あの石碑の裏であなたをもう一度見かけたときはうれしかった……あなたを必ず手に入れようと思った」
真剣な、しかし甘やかな潤んだ瞳が富森に近づいた。
「やさしくて大人のあなたが好きだ」
唇が触れる手前でふっと前原の瞳が曇りゆっくりと瞼が閉じられた。
「……あなたが好きだ、富森さん。でも大石教官が忘れられない……」
前原は次の瞬間、自分を抱く力強い腕を感じた。
唇に触れる冷たいひげの感触……やさしいくちづけ……。
富森からのくちづけはこれで何度目だろう?
「……かわいそうに」
穏やかな情け深い富森の声が前原の胸に沁みる。
目を閉じたまま前原は富森の胸に顔を押し付けた。
熱い涙が富森のワイシャツにゆっくりと染みこんでいく。
兵学校時代の恩師を今も恋い慕う前原の心情が富森には切なく悲しかった。
声を殺して泣いている前原がたまらなくいとおしかった。
「……かわいそうに」
静かにいたわりをこめて繰り返すと、富森は前原をしっかりと抱きしめた……。