◆旅順(九)


「かわいそうに……」
いたわりのこもった静かな声が前原の心に沁みた。
前原の感傷的な涙が富森の胸のシャツに吸い込まれていく。
やさしく受けとめてくれる人の胸で、前原は大石のことを想う。
大石にこそ、こんなふうにやさしく抱きしめて欲しかった。
いや、違う。
大石教官なら、こんなふうに抱きはしない。
あの人は、あの熱い人なら、激しく狂おしく抱きしめてくれるだろう。
大石教官……!
十九だった彼の心を、完璧に掴みさらってしまった教官。
口に出せぬ片恋だからこそ、激しく純粋に想いはたぎった。
こんなにも長い間、彼の心から去らぬ面影……ただひたすらに大石が恋しい。
鋭い目もとに愛嬌のある笑みを滲ませた大石の凛々しい姿が目に浮かぶ。
大石教官……!
どうにもならない想いとわかっていても……あなたが恋しい。


彼の肩を撫でる武骨な手のやさしい動き。
彼の涙のわけを知りながら、こんなにやさしく慰めてくれる富森。
このもの静かな辛抱強い人に、すっかり頼ってしまっている自分を前原は感じていた。
心の重心がゆっくりと富森のほうに傾きだしている。
大石を想う気持ちが薄れたわけではないが、今こうして抱きとめてくれる富森の胸に、かつてない安らぎを前原は見出していた。
キャメイ石鹸の香りが富森の白いワイシャツの胸元からかすかに漂う。
そのワイシャツの自分が付けた冷たい涙のあとに前原は顔を埋めた。
やさしいんですね、富森さん。
こんな俺でも、あなたは受けとめてくれるんですね……。


心の中の思いをすべてぶちまけてしまって、前原は気持ちが楽になったのだろうか。
富森の胸に頬を預けたまま、彼はじっと目をつぶっている。
……私なら一向に構わない。あなたが誰に心惹かれていようとも。
睫に涙を残した綺麗な面差しを見守りながら、富森はあやすように彼の肩を撫で続けていた。
……私はあなたが好きです。
心の中で富森はつぶやく――
好きだからこそ、ここまであなたに深入りしてしまった。
あなたをほうっては置けなかった。
どこか辛そうなあなたを少しでも手助けしたかった。
私がそばにいることで、あなたの寂しさが紛れるのならそれでいい。
「大石さんのことは……ずっと胸にしまっておくつもりですか?」
富森は腕の中の彼にそう静かに問うた。
前原は小さくうなずいた。
……この先ずっと、報われぬ恋に苦しむつもりなのか。
恋を成就できなくとも、恩師としての大石をも失うかもしれぬ危険を前原は冒せないのだろう。
……そのぐらい、前原さんは大石さんのことを。
不思議と嫉妬はおきなかった。
ただ前原が不憫だった。
「諦めたつもりなのに。もう何度も」
富森の胸に頬を預けたまま、前原はつぶやいた。
「でも諦めきれない」
一度は乾いた涙がまた目尻に滲んだ。
「打ち明けたら、なんだか気持ちが抑えられなくて。どうかしている」
前原は強いて笑みを浮かべようとした。
歪んだ笑顔。
「あなたに甘えすぎですね」
「いいんですよ……」
富森の穏やかな表情は変わらなかった。
また瞼を閉じて彼の腕の中に身を委ねた前原を、そっと包みこむように抱きながら、富森は漠然と前原の恋を思う。
はっきりと前原が自分の思いを大石に伝えたならば……。
自分が前原を振り払えなかったように、大石も彼の気持ちを無下にはしないのではないだろうか?
額に落ちかかった髪をそっと撫でつけてやると、前原が面を上げて富森を見つめた。
何も隠さぬ、心の思いをそのまま映し出した瞳の色だった。
訴えるようなその蒼い瞳を、富森はみつめかえした。
この澄んだ瞳の、愛情を請う彼の必死な目の表情に、心を動かされない者がいるだろうか?
男であっても、いや男だからこそ、彼の全身から匂い立つ清冽な色気に無関心でいられる者はいるだろうか?


自分をみつめる前原の瞳に魅入られたように、富森は視線を外せなくなっていた。
澄み切った蒼い瞳は一心にひたすらに富森を見つめてくる。
なりふり構わず愛情を求める瞳が切なすぎる。
……彼は人を愛しすぎる。
情欲だけと割り切ることのできない一途さと、孤独に耐えられぬ多情で寂しがり屋な面をあわせ持つ綺麗な青年。
……私など、寂しさしのぎの愛人だったろうに……あなたは……本気なのか?
彼の瞳には嘘はない。
真っ直ぐに富森への愛情と信頼をあらわにして、彼は見つめてくる。
いまや彼の熱い気持ちが富森へと流れを変えようとしていることを、富森はその偽りのないまなざしから見てとった。
一途で熱い前原。
片恋のままの大石には、思いを打ち明けることもできない気弱な前原だが、既に手に入れた富森に対しては違う。
いったん片恋から抜け出すと、前原は豹変する。
相手の身も心も、すべてを欲する貪欲な恋人となる。
前原が本気になれば、ともに火だるまになるような恋を強いてくるのはわかっている。
激しく人を愛すが、恋人にも同量の愛情を求める前原。
……あなたを心からいとしく思います、前原さん……でも私はあなたのようには愛し返すことができない……。


一心に富森を見つめる瞳の切ない色。
こんな無防備な縋るようなまなざしに富森は弱かった。
……許してください、私は恋愛には向かん冷たい人間だ。
前原の瞳に耐え切れなくなって、富森は彼を強く抱きしめた。
腕の中で前原が切なげな吐息を漏らした。
一度……そしてもう一度。
腕の中で、前原が変貌していくのがわかる。
抱きしめたしなやかな身体が、富森に熱く絡みついてくる。
見上げる瞳の中に灯る、切なげな、情欲の炎。
刹那的であっても、いまだけでも、あなたが欲しい……前原の潤んだ瞳がそう訴えている。
あなたがそう望むなら……あなたの望むように……富森は無言で目を閉じ、前原の求めるままに唇を寄せた……。


私も崖っぷちにいるのですよ。
上陸できれば、真っ直ぐにここに来て、あなたと逢瀬を持つこの頃だ。
あなたとの愛欲に溺れている。
最初は不安定なあなたをほうってはおけなかった。
それが今では、あなたなしでは……
――均整の取れた前原の胸筋に沿って、富森は唇を這わしていく。
前原のすべらかな肌は、彼の唇が触れるとたちまちに熱を帯びてほんのりと色づいていった。
堅く骨ばった富森の肩に両手を置き、前原は何度も息を飲んだ。
シャツをしどけなくはだけた前原の喉元が、灯りを消したベッドの上で思い切り反っていた。
鋭敏になった感覚に我を忘れ……やがて細いため息のような声を唇から漏らすと、いとおしげに指を富森の髪に絡め、彼を裸の胸に抱きしめる。
「あぁ……」
耐え切れないように、前原は上体を富森の上に倒すと、夢中で彼に唇を押し当てた……。


少しは妬いてくれないのですか?
大石教官のことを話しても、あなたの表情は変わらない。
あなたの中で、俺はどんな位置を占めているのだろう?
自分は他の男に思いを寄せながら、富森さんの心を欲しがるのは身勝手すぎるけど……あなたが欲しい。
……あなたを完全に征服したい。
思うさま、前原は技巧を凝らす。
どうしてでも富森を捉えたい。
一方的な奉仕にもかかわらず、彼は激しく昂ぶっていた。
頂点に向かって確かにふたりは一歩一歩登りつめていく……肉体だけは。


俺を欲しいと言ってほしい。
俺だけを。
どうして、そんな醒めた態度をとるのです?
ああ、あなたの心が欲しい。
この焼けるような焦燥感がわかりませんか。
ああ! 俺がこんなに……!
――身もだえする彼の熱い凝りを解き放つべく、緩急をつけた刺激が与えられた。
極限状態に長く置かれた彼の肉体は、すぐさま鋭敏な反応を見せた。
……ああっ! だめだ、そんな簡単に……!
前原は富森の背中に爪を立てた。
張りつめていたものが一気に放出され、前原の身体は宙に投げ出された。


二度、三度と。
若い肉体は彼の心を置き去りにして、触れられては何度も舞い上がり、果てた。
前原はぐったりと全身を富森に預けていた。
充足しきった肉体と満たされぬ心を抱え、何も言わず、ただ富森に身をもたせかけていた。
汗の退いた富森の身体はもう冷えかけていた。
それでも……あなたは?
あなたは寂しくないのだろうか?
あなたは強い人だけど、誰にも心を見せず人の苦しみだけを受けとめて癒していくつもりなのか?
俺がそばに寄り添っていても、あなたは俺をとくに求めようとはしない。
手を差し伸べてはくれる、寄りかかっても拒みはしない。
でも、そこまでだ。
けっして心の内奥には立ち入らせてくれない……きっと俺だけでなく何人も。
あなたはひとりだ、たぶん、これからもずっと。
――手の届かぬ富森の心。
富森と肌を合わせてはいても、前原は諦めと満たされぬ想いにさいなまれていた。