◆歳月


ホヒーホー!
久々に耳にする号笛の音だった。
舷門での艦長以下幹部乗組員総出の出迎えに大石元帥は答礼を返した。
今日は連合艦隊の新旗艦で記念式典が行われる。
だだっ広い甲板には海軍関係者の礼服や礼装がチラホラ見えた。
照和4X年、役職をとうに退いた大石も久しぶりに軍服をまとって今日の式典に臨んだのである。


元帥のきらびやかな礼装の胸にはたくさんの勲章が輝いている。
そのなかにはもちろん深紅のビクトリアクロスも色あせずに輝いていた。
今朝、大石の久しぶりの軍服を見たマーガレットが
「軍服姿のあなたはとても素敵よ」
などと熱っぽく囁いて、大石を年甲斐もなく照れさせたものである。
やや肉付きは落ちたが、がっしりした厚い胸板と広い肩はまだそんなに老いを感じさせない。
額が後退し髪もすっかり灰色になったが、眼光の鋭い不敵な面構えに衰えはない。
「あー、大石元帥!」
懐かしげに大声を上げて、ひとりの将官が大石のところに小走りに駆け寄ってきた。
「おい、もうちょっと重々しく歩けんのか? ちょっとは体裁ってもんをだな……」
叱りながらも大石は嬉しげに目を細めた。
「お久しぶりであります、元帥」
大将の階級章をつけた磯貝連合艦隊司令長官が敬礼した。


年長者に受けがよく敵を作らぬかわいげのある人柄で、戦後の海軍の出世街道を着々と登りつめ、磯貝はまさかの連合艦隊司令長官の座に就いていたのである。
「ぼーっとしているだけで、なんとなく周囲の協力で問題を解決してしまう他力本願長官」
とか
「照和のニコポン」
とか、とかくからかいのネタになっている磯貝長官ではあるが、平和時の長官には彼のような調整型の穏健な人物が合っているのかもしれない。
磯貝はやる気のある優秀な部下にも恵まれた。
懸案であった艦隊改革も、のほほんとした長官を担ぎ上げた部下たちが縦横無尽に活躍しどんどん実績をあげていた。
磯貝は部下の用意した資料を手にして、持ち前の純朴さを前面に出して訥々と陳情してまわり、予算と協力を取り付けてくるだけでよかった。
部下運と愛嬌も実力のうち、というべきであろうか。


式典は無事終了した。
「おい、俺はいいから招待客にちゃんと挨拶をしてこんか。おまえは今日の主役だろうが」
大石は自分のそばを離れない磯貝を気遣う。
「じゃあ、一緒に来てくださいよ。知名度抜群の大石元帥と一緒のほうが挨拶回りも効果的というものです」
「ほほう、なかなか計算高いな」
大石が頼もしそうに磯貝を見て笑う。
「よしよし、そういうことなら付き合うぞ」
磯貝は大石の笑顔に嬉しそうに笑み崩れる。
「ありがとうございます。今日はゆっくりしていってくださいね。私はこの日を楽しみにしていたんですから」
磯貝は今も変わらず大石が大好きなのであった。


真新しい長官室は広々として明るかった。
ソファにどっかりと腰を下ろした大石は懐かしげに部屋の中を見渡す。
すっかり近代化されてはいるものの、長官室の重厚な雰囲気は日本武尊を思い出させる。
「お疲れになったでしょう」
磯貝は茶を勧めた。
「大石元帥にコーヒーはお出しできませんからね」
「いやこの頃は紅茶のほうが多いかもしれん。すっかり英国風にされてしまってな」
大石が茶碗を手にして言った。
「マーガレット様はお元気ですか」
「ありがとう、相変わらず美人だよ」
大石は平然とのろける。
「そうでしょうねえ、マーガレット様に何年お会いしてないかなあ」
「おまえがちっともうちに遊びに来ないからだ。近いうちに奥さんを連れて遊びにおいで」
「はっ、ぜひとも」
磯貝の結婚式には大石もマーガレットをつれて参列した。
洋裁学校の校長だという新婦は貫禄たっぷりで終始にこやかであったが、感激した新郎と新郎の父が涙ぐむという、いかにも磯貝らしい結婚式であった。


自然と古い友人の近況が話題になる。
「艦長の具合はどうなのだ?」
大石は心配そうに胃がんで入院している富森の容態を訊いた。
「はい、術後は順調で転移もみつからず、近々退院なされます」
「そうか、そりゃよかった」
「私が死んだら一度仏壇に経を読んでやって下さい、なんておっしゃって私に経本を手渡されましてね、あの時は手術前だったから、もう私はおろおろしたんですけどね」
おろおろどころか、ベッドの富森に取りすがって号泣し、驚いた富森の家族や看護婦がとんでくる騒動になったのだが、磯貝はそれは言わない。
「わははは、昔からお棺を用意すると持ち直すというからな。その経本も大事に持っておけ。富森さんも元気になるぞ」


原は引退後、アイスランドに移住してしまった。
イーサ泊地の近くの牧場を買い、悠々自適の毎日であるという。
毎夏を英国で過ごす大石は、年に一度は原に会っている。
「ちょくちょく手紙は出しているのですが、返信は滅多にいただけませんよ。先月、この絵葉書を頂きました」
磯貝は机の上の写真たてを大石に渡した。
「これは……イーサ富士だな……」
淡いタッチの水彩のスケッチである。
元気か、と一言だけ原の字があった。
(原は絵が描けたんだな。そんなことは一言も俺には言わなかったのに)
「優しい色遣いだな……」
大石はつぶやいた。
「でしょう? 参謀長みたいだ……」
磯貝は懐かしそうに微笑んだ。


時が過ぎ、そろそろ艦を辞そうと大石が立ち上がった。
磯貝も大石に付き従う。
「いい艦だな、磯貝」
長官室のドアを開けようと大石の前に立った磯貝に大石が言った。
「ええ、いい艦です。いつまでもピカピカでいてほしいです。これからも本来の出番がなければいいんですけど……長官としてあるまじき発言ですかね?」
「ははは、おまえらしいよ。いや、それでいい。実戦で使うだけが艦の使い道ではない。そうだろ?」
叡智と諧謔を宿した彫りの深い大石の目が磯貝に笑いかける。
懐かしい慕わしい大石の微笑み!
幾度、この大石の笑顔に彼は力づけられたことだろう。
20年の歳月を忘れさせるような、昔のままの心強い大石の笑顔だった。
「……長官ッ!」
胸がいっぱいになって磯貝は大石に思わず抱きついた。
彼の上にも大石の上にも歳月は流れた。
しかし大石の笑顔は変わらない。
至らない事だらけの磯貝を何かと庇い、何かと励まし、訓育してくれた人々のことが磯貝の胸によぎった。
優しい心配りを忘れず、彼を温かく見守り続けてくれた富森艦長。
彼は今、病床にある。
厳しかったが後には心を開いて、兄のように親身になってくれた原参謀長。
彼は今、日本にいない。
(でも、大石長官はこうして健在なんだ)
「……大石長官……」
大石にしがみついたまま、磯貝は泣いた。
(長官、これからも元気でいてください。どうかずっと……)
涙がぽろぽろこぼれて止まらなかった。
「長官はもうおまえだろうが……」
そう言いながらも大石は磯貝を優しく抱き返してやった。
(……いつまでも気持ちの優しい純なやつだ)
大石には磯貝の気持ちがよくわかった。
「俺もおまえが大好きだ……これからもずっとおまえを応援しているぞ。な? 磯貝……」
磯貝は泣きながら頷いた。
そんな磯貝を大石は優しい表情でしばらく抱いていてやった。


「なあ磯貝。おまえ、えらく下腹が出てきたな……少しは運動しろよ」
「……ふはぁ」
磯貝はおかしな涙声で返事した。
「今いったい何キロあるんだ」
「……ふは……」
「忙しくたって、健康管理は自分でちゃんとするんだぞ」
「……はひ……」
「昼食もなあ、できれば野菜中心の軽いものに替えてもらえ。どうせ幕僚は年寄りばかりなんだから」
大石のおせっかいなところは今も変わらない。
しかし磯貝は大石のそんなところも好きなのだ。
昔からおせっかいであっても大石に構ってもらえると嬉しかったものである。
「こら、いつまで俺にしがみついている気だ」
大石の声は優しく笑っていた。
「さあ、舷門まで俺を見送ってくれ。今日は楽しかったよ。おまえの長官ぶりを堪能させてもらった」
「……ふひ、はふかひいでふ」
大石は磯貝の珍妙な声に噴きだした。
「まず洟をかんで顔を洗って来い。待っててやるから」
磯貝は一礼するとどたどたと私室に走っていった。
(あいつも黙って座ってりゃ貫禄があるんだがなあ)
相変わらずそそっかしそうな磯貝の後姿に大石は微笑んだ。
(明日は富森さんの見舞いに行ってみようか。今日の磯貝の様子を話してやったら喜ぶだろう)
穏やかにのどかに歳月は大石に実り豊かな老境の時を与えようとしていた……。