◆酒嫌い〜続き


原は朝食の席に顔を出さなかった。
風呂から出てさっぱりすると、原はまたベッドに潜ってしまった。
とても起き出せるような体調ではなかったのだ。
二日酔いに苦しみながら、うとうとと数時間……昼も近くなった頃、磯貝が薬湯を持って部屋にやって来た。
「艦長からです。二日酔いによく効くお薬だそうです」
磯貝がお盆に載せた大ぶりな湯飲みをベッドの原に差し出した。
「ふうん……」
気のなさそうな返事をして、原はちらりと湯気を立てているそれに目をやった。
「煎じ薬です……苦そうだけど」
「そこに置いといてくれ」
「とかいって、飲まない気でしょう」
にやにやと磯貝が原の顔を覗き込んだ。
「……飲むよ、あとで」
ふくれたような顔つきで答えると原はぷいと横を向いた。
「信用できないなぁ」
原をみつめる磯貝のいたずらっぽい笑みが深くなった。
「わかった、さっさと貸せ」
「はい」
原は磯貝から薬湯を受け取ると、思い切って一気に飲み干した。
苦かったが、のどが渇いていたせいもあって、案外楽に飲めた。
「……そうひどい味でもなかった。なんだって?」
「イモリの黒焼き……」
原はうっとなって空になった湯飲みを落としそうになった。
「アハハ……冗談です、黄連だそうです」
「オウレン?」
「キンポウゲの一種だそうで」
「バカ……また吐きそうになっただろ」
原は笑顔の磯貝を一応睨みつけておいて、そういえば、と言葉を続けた。
「部屋、すまないことをしたな」
磯貝の部屋をめちゃくちゃにしたことは、はっきりと覚えていた。
今朝、従兵たちが総出で掃除をしているところも目撃した……。
「かまいませんよ、もうきれいになりました。それよか気分はどうなんです? お昼は食べられそうですか?」
「やめておこう……」
昼飯のことなど、考えただけで胃が裏返りそうだった。
「そうですね、無理しないほうがいいかもしれませんね。連絡しておきますよ」
磯貝も無理には勧めなかった。
「ん、頼む」
原は湯飲みを磯貝に返すと、雪で白くなった舷窓に目をやった。


外は吹雪になっていた。
気温も急激に下がってきたのだろう、室内のスチーム暖房がいつもより強めに切り替えられたらしく、蒸気に暖められた管が鈍い音を立てていた。
磯貝は原のベッドサイドに立ったまま、俯いて毛布の縁をそっと撫でていた。
「あの、どうして私の部屋に来られたんですか?」
「さあ? 酔ってたから覚えてない」
「やっぱり私が自分だけ逃げたから、怒ってらした?」
「かな? ほんとに覚えてないんだよ」
「そうなんですか、私はてっきり……」
磯貝は丸い大きな目で無邪気に笑いかけた。
「ふふ、今度宴会があったら二人で早めに逃げましょうよ」
「逃げるって磯貝……艦内のどこにだ」
「うーん、探しときますよ、どこかにいい隠れ場所を」
原はクスリと笑うと目を閉じた。
……まったく能天気なやつだ、磯貝は。
「じゃ、私は帰ります」
「ああ」
原は目を閉じたまま、磯貝が出て行く足音とドアを閉める音を聞いていた。
部屋はまた静かになった。
どうして磯貝の部屋に行ったか……磯貝には言わなかったが理由は原にはわかっていた。
たしかに自分を残して逃げた磯貝が恨めしかった。
今までなんのかんのといいながら、原は磯貝の頼みをひとつとして断ったことがなかった。
……それなのに、あいつは薄情なやつだ。
自分だけ逃げた磯貝の部屋に寄って、嫌味のひとつも言ってやりたかったのはたしかだ。
でも、それより……。
磯貝に聞いて欲しかったのだ。
大石の仕打ちを。
庇いもせず、飲めない酒に苦しむ原を笑って見ていた大石の薄情さを。
原にさんざん悪ふざけをしておいて、後は知らん顔で物思いに耽っていた大石のつれなさを。
そんな大石の仕打ちに傷ついた気持ちを磯貝に慰めて欲しかった。
磯貝に少しだけ八つ当たりをして、そうすることで甘えたかったのだ。
……なんでそんなことを、あの頼りない磯貝に求めたのかな?
原は酔っていた自分の気持ちに苦笑した。
……酔っていたからこそ、自分の気持ちに正直だったんだ……そう冷徹なもうひとりの原が心の中で醒めた調子でささやきかけた。
……おまえはずっと前から磯貝に惹かれているんだよ、あの純粋さ無邪気さにな……。


ふん、ばかばかしい。
惹かれる以前に呆れているよ、あの能天気さ加減には。
原は憎まれ口をたたき返す。
わかっているさ、気づいているさ。
俺はほんとはあいつのことが好きなんだ。
素直で気の優しい、涙もろくてどんくさい磯貝を。
なんといっても今まで俺はさんざん苦労してあいつを仕込んできたんだ、参謀としてやっていけるように……情も移るさ。
……ふふ、素直じゃないな。
心の中のもう一人の原がおかしそうに笑った。
二日酔いの気持ち悪さとは別のところで、原の気分は爽快だった。
……そうとも、俺はあいつが好きさ。
今なら自然にそう言いきれる。
もう自分の気持ちを躍起になって否定しようとも思わない。
原は枕に頭を深く沈めて、目を閉じたまま静かに微笑んだ。
……とにかく眠ろう。
艦長の煎じ薬が効いてきたのか、胃のむかつきが治まってきたような気がする。
……酒なんか大っ嫌いだ。こんりんざい飲んでやるものか。
原は身体の向きを変えると枕に頬を埋めた。
洗いたてのさらさらした髪が原の白皙の額に落ちかかる。
……コーヒーも大っ嫌いだ。当分コーヒーはご一緒しませんからね、長官。
スチームの効いた部屋の中で、原は穏やかな眠りに就こうとしていた……柔らかな口ひげまで引き上げた毛布に、暖かそうにくるまりながら。