◆栞


原は私室で海外専門誌を読んでいた。
読むのが遅い磯貝から取り上げてきた、戦術論文の載っている雑誌である。
(大して目新しいものはないな)
そう思いながらも全論文にきっちり目を通していく。
(ああ、ここは磯貝には勉強になるんじゃないか?)
原は手近な紙片をページに挟み込んだ。
(そうだ、さっきのくだりの用兵法も知っておいたほうがいい)
別のページにも原はまた紙片を挟みこむ。
(磯貝がしっかり勉強してくれれば俺も助かるんだからな)
そう自分に言い聞かせながら、原はせっせと読み終えた雑誌のページをもう一度繰る。
(……しかしいくらあいつに知識が増えても、あのどん臭さは直らんだろう)
ふふ、と原は軽く笑った。
でも、そんな磯貝がもう嫌ではない。
これからも磯貝は信じられないポカをするだろうし、その鈍さで原の神経を逆撫でするだろう。
(それでも俺はなんとか我慢してやれると思う)
仕事が忙しくない今だから、原もこんな寛大な気持ちになれるのかもしれない。


原は磯貝向けのしおり挟みこみに没頭していた。
せっせとページを繰って紙片を挟み、留意事項までその紙片に書き込んでおいてやる親切さであった。
原は仕事中毒なのかもしれない。
せっかくの自由時間までも、こうして人のための仕事でつぶしてしまう。
(ひたすら尽くす性分なのかもな)
しおりだらけになった雑誌を前にして原はふっと笑った。
(まったく損な性分だ)
何の相談もなしに独断専行する上司と凡ミス連発の頼りない部下に挟まれて、原ばかりが書類を手に右往左往しているような状態だ。
勝手気ままな大人物といたって鈍感な純情男が相手では、常識人であるだけ原の分が悪くなるというものだ。
(結局、細かい調整や書類のまとめはみんな俺一人でやらなくてはならないんだからな)

      *      *      *

作戦室での幕僚会議のあと、原が磯貝に何か話しかけている。
俺はふと興味が湧いたのでそ知らぬ顔で聞き耳を立てていた。
「……一応おまえも目を通しておいたほうがいい。全部読むのも面倒だろうから役に立ちそうなところにしおりを挟んでおいた。そこだけはちゃんと読んどけ、いいな」
英字の戦術本だろう、紙が何枚も挟んである本を、原は磯貝に手渡していた。
礼を言って頭を下げる磯貝ににっこり笑って頷くと原は作戦室を出て行った。
原が磯貝にあんな顔を見せるようになったとはなぁ。
俺は少なからず感動した。
磯貝は大事そうに戦術本を胸にしっかりと抱えたままぼんやりと突っ立っている。
憧れの君からプレゼントを手渡された女学生、といったところか。
俺が横からじろじろ眺めていることにも気がついていないようだ。
相変わらず、周囲に警戒心のない暢気なやつだ。
「おい、それを見せてみろ」
俺はそう言って磯貝から本を取り上げようとした。
「ああっ」
磯貝が情けない声を出して本を胸に抱きしめた。
こいつはどうもリアクションが妙に女っぽくてこっちがコケそうになる。
「いいから貸せ」
俺は有無を言わさず磯貝から本を取り上げた。
やはり戦術論文を掲載している専門雑誌だった。
俺もときおり目を通すが退屈な論文ばかりで役には立たん。
こんなものをありがたがっていれば、頭が固くなるだけだと思うがな。
「どれどれ……」
俺は本をパラパラとめくってみた。
ところどころにうるさいほどしおりが挟んである。
しかもしおりには原の細かい字で何か書き込んである。
「ええっと、なんだ?」
細かい字はさすがに読みづらい。
情けない話だが俺は紙片からやや目を離して字を判読しようとした。
「地中海作戦における補給経路の……予備師団投入の時期を……なんだ、みんな注釈か」
「あっあっ、元の場所にかえしておいてください、長官。しおりの意味がなくなります」
俺が本にしおりを適当に戻そうとしたのを見て、磯貝は悲痛な声を上げた。
「ああ、そうか。……はは、どれがどこだったかわからん」
「ああー。せっかく参謀長が挟んでくださったのに……」
「すまん」
べそをかくな、磯貝。
じゃまくさがらず全部読め。

      *      *      *

思わぬ大石の妨害で、磯貝は結局すべてのページを読む羽目になった。
夜遅くまでかかっても、彼は今日中に本を読んでしまいたかった。
明日一番に
「昨日はありがとうございました!」
そう原に挨拶がしたかったのだ。
親切にしおりまで挟んでもらってまだ全部読んでいない、なんてことは申し訳なくてできなかった。
大石がしおりの位置を滅茶苦茶にしてしまったなどとは、もちろん言えない。
(あれ? まだあったのか)
最後の参考文献のページにも原の紙片が挟まれていた。
……このあいだの探偵小説のお礼のつもりだ。またよかったら貸してくれ……
(参謀長……)
じわわんと磯貝の胸に温かいものが広がる。
(何をお貸ししよう? 横溝がお気に召したのなら……)
短編ならいくつか姉が送ってきた切り取りがある。
中篇もあるが「真珠郎」である。
(参謀長にどうかなぁ……俺におかしな趣味があると誤解されても困るしなぁ……)
耽美的な表紙の単行本を前にして磯貝は悩むのであった。