◆損と得〜続き


「ご不快ですか? 私のそういうところが」
コーヒーカップの向こうから、すっと原は真っ直ぐな視線を大石に向けた。
その日の夕食後、ふたりはコーヒーカップを手に長官室で向かい合っていた。
「あ、いや……不快とかそういうことではない」
意外なほど真っ直ぐに向けられた原の視線に、大石はやや慌てた。
原の切れ長の目には、何の感情もなく、ただ純粋な疑問だけがあった。
「損をするばかりで、君が気の毒だと思ってな」
原の鋭い舌鋒には幕僚だけではなく、遊撃艦隊の古強者の司令たちも辟易している。
あのこわもての中村中将でさえ、司令部に報告書類を持参した際、大石の横に同席する原の鋭い質問には冷や汗をぬぐう……そのぐらい原は誰に対しても容赦がない。
「長官がわかっていてくだされば、かまいませんよ。他人がどう思おうと」
原の目がきらりと光り、大石の目にその真情を告げた。
しかしそれも一瞬……。
「……私は自分の職務を果たしているだけです」
原は目を伏せながら、そう言葉を付け加えた。
嘘ではない。
与えられた職務に忠実でありたい。
そうすることが大石のため、ひいては艦隊のためになるのなら、いくらだって口やかましくなれる。
他人に煙たがられるぐらい、別になんとも思わない。
……俺の理解者は長官ひとりでいい。
そんな心の奥の思いを長いまつげの影に押し隠すと、原は真顔のままカップに口をつけた。
香り高い大石のコーヒー……大石がねぎらいの気持を込めて淹れてくれたコーヒー……。
「そうか……。俺なら十分わかっている。感謝している、参謀長」
損な役ばかり進んで引き受けてくれる俺の片腕……大石は感謝を込めて原の整った眉目をみつめた。
「ありがとうございます」
ふっと原が爽やかな笑顔になった。
まぶしそうに大石は目を細めた。
無私な笑顔だ。
「俺は果報者の長官だな……」
大石は胸が熱くなり、潤みかけた視線を壁際にそらした。


壁際には予備のソファーがある。
来客が多数だったときの随行員のためのソファーである。
そのソファーの隅に士官用艦内帽が置き忘れてあった。
……まずいっ!
大石の表情が一瞬引きつった。
夕食時間まで大石の肩を揉んでいた磯貝の忘れ物だ。
磯貝は艦内のあちこちにしょっちゅう帽子を置き忘れるうっかり者だ。
この帽子は大石が磯貝をこの長官室に匿っていたなによりの証拠になる。
……気づかれてないな?
大石はさりげなく視線をソファーからずらすと、原に微笑みかけた。
「コーヒーをもう一杯どうだ?」
「いえ、もうけっこうです」
「そう言わず、もう一杯付き合え」
大石は笑顔で原に二杯目を強いた。
「そうですか、ではお言葉に甘えて頂戴します」
「うん……」
大石は空になったコーヒーサーバーを手にして立ち上がり、ソファーの前を通りがかる。
原がこちらを見ていないのを見すまして、身体の影に隠すようにして磯貝の艦内帽を掴むと、ポイとソファーの裏側に投げこんだ。
うまいものだ。
大石はそ知らぬ顔で二杯目のコーヒーの準備を調えるために、そのまま食器室に消えた。


(……やっぱり長官が磯貝を匿っていたのか)
原はソファーの裏側から艦内帽を引っ張り上げた。
『磯貝』とはっきりと名前の書かれた帽子を手に、原はくすりと笑う。
(ちゃんと見てましたよ、隠すところを。まったくやることが子供みたいなんだから……)
原は苦笑いしながら、帽子をソファーの裏側にもう一度落とすと席に戻った。
ほどなくして大石が部屋に戻ってきた。
原に帽子を見られたとも知らずに、すました顔で二度目のコーヒーの抽出にかかる。
(まんまと誤魔化したつもりなんだろうな、この人は)
上機嫌であれこれと話す大石に向かい合いながら、原は可笑しくてたまらなかった。
今度に限らず、なにかと磯貝を庇う大石の態度にカチンとくるものはあるが、あの磯貝が相手では仕方がないかと思わなくもない。
(しゃくに障るが、みんながみんな磯貝を庇いたがるからな……ふん、あいつは得なヤツだ)
原も今ではそうサバサバと思えるようになっている。
「ご馳走様でした、おやすみなさい」
二杯目のコーヒーで、和やかなひとときを過ごして原は長官室を辞した。
――磯貝に艦内帽を返しときましょうか?
そんな意地悪を言ってみて、驚きあせるだろう大石の反応を見てみたくもあったが
(ま、いいです。あなたを困らしたくないですから)
原は何も言わず、微笑だけを残して自室に帰っていった。


大石は長官室のドアの前でぼんやりと立ち尽くしていた。
別れ際の原の謎めいた微笑がどうも気にかかる……。
伏せ気味の濃いまつげの影から、不意にきらりと光った意味ありげな原の流し目。
……原にはどうもその、妙な色気があってドギマギさせられるな。
大石は軍服の襟を少し緩めると、ちょっぴりのぼせた喉元に風を入れるのだった……。