◆早春

帝都はきれいに晴れ上がっていた。
先日の大雪は、塀の根や庭木の陰などにまだ白く残っているが、この穏やかな晴天が続けば一日二日で跡形もなく消えてしまうだろう。
早いものでもう明後日は立春である。
花芽の膨らんだ白梅の枝、しっかりと強くなった陽の光、暦の上だけでなく季節はたしかに冬から春に変わろうとしている。
縁側から庭を眺めながら、大石は日本の早春の訪れを感じ取ろうとしていた。
明日にはまた氷の国に戻らなければならない。
春なお遠い地吹雪の舞うイーサ泊地に……。
「だんなさま、そろそろお支度を」
「……うん」
大石は朝日の差す縁側から離れると、ゆっくりと紬の帯を解き、差し出された洋服に着替えだした。

一時帰国した大石は、海軍省はもとより陸軍省や外務省にまで足を伸して、連日精力的に動き回っていた。
昨日開かれた大本営会議では来るべき決戦についての意見交換が行われ、大石も出席して大西洋の現状を報告した。
この大戦で日本が乗り越えなくてはならない最後の二つの山――陸軍の満蒙決戦、そして海軍の大西洋決戦。
英国のブレスト条約によって独軍の動きが活発化し、陸海軍とも決戦の時期が早まるだろうという予測で全会は一致した。
旭日艦隊も早晩、バルト海の封印を解かれ優勢になった独艦隊の圧力によって、北大西洋から撤退を余儀なくされるだろう。
しかし、できるかぎり、粘らなくてはならない。
米軍との共同作戦については、すでに大高とアイゼンハワーの間で密約が取り交わされている。
そのXデーは、七月四日。
それまでバルト海、地中海から湧き出すドイツ艦隊を旭日艦隊が極力押さえこむのだ。
揺らめきその都度形を変える世界情勢の中で、大石はどんな事態に直面しても大高たちと心を一つにして戦略を遂行してゆくつもりだった。
当初からの目的である「より良き負け」を目指して……。

「いい天気になりましたな。この間の大雪がウソのようです」
首相執務室に差し込むまぶしい陽光に大高は目を細めた。
彼の向かいには、高野と大石が並んでソファーに腰掛けている。
「早いもので明日は節分ですからな」
出された渋茶を啜っていた高野がくぐもった声で応じた。
その隣で大石は、神妙な顔つきで黙って手を膝に乗せている。
高野は軍服だが大石は開襟シャツにジャケットというラフな風体だ。
大高は興味深そうにふたりの海軍軍人を見比べた。
品良いグレーの白髪の高野、つややかな黒髪に幾筋か銀が混じるようになった大石――ふたりとも懐の深そうな仁者の風格を備えているが、じつはどちらも芯は偏屈な癇の強い癖馬だということを大高は知っている。
頭脳明晰人格高邁ではあるが、高野は頑固で人の好き嫌いが激しいし、大石は傲慢で自分勝手である――ひと皮剥けば両人とも中身はけっこう大人げないのだ。
しかも彼らは合理性を尊ぶ海軍軍人でありながら、肝心なところで直感とひらめきを優先する“感性派”なのである。
人一倍思考の柔軟な大高でさえ、ときどきこのふたりの論理の飛躍にはついていけなくなる……。
ふたりとも心から信頼する盟友ではあるが、肝心な話し合いは腹心の木戸外相の到着を待ってからと、大高はゆっくりと構えていた。

「どうも遅れまして」
しばらくしてようやく木戸が執務室に姿を見せた。
多忙な木戸は外相公邸で各国大使との月例朝食会をこなし、次に外務省内の朝のミーティングに顔を出してから、急ぎ首相官邸に駆けつけてきたのだった。
「――大石さんの女王陛下の件ですが、亡命という案はいかがでしょうか」
勧められたソファーに掛けるなり、木戸はせわしなく外務省からの提案を切り出した。
「以前、英米間でかなり具体的に亡命計画が進められていたようですが、王室のカナダ亡命にアメリカが反対してから、計画は頓挫したままになっています。ひとつ日本政府から香港亡命を提案してみては。地理的にも香港ならば、こちらもなにかと連絡を取りやすいですし、王室の方々と交流を図る機会も増えましょう」
木戸は一同の顔を眺め回した。
「なるほど、その手がありましたな。女王陛下が精神的にいろいろとお辛いのであれば、なおのこと好都合ではありませんかな」
大高がまず賛同した。
「うん、香港ならば独軍も手を出せませんな。英本土進攻が再開されれば、カンブリア要塞もいつまで持つかわからんのだし……。大石、そのほうが貴様も安心できるだろう」
高野も頷く。
「香港亡命……」
大石も意表を突かれたように考え込んだ。
「その手があったか……やるとすれば、やはり空路、ですかな。旭日艦隊が北海から離れられない以上」
「白鳳ですね」
木戸が大きく頷く。
「グリーンランドまでの安全さえ確保できれば、問題はないでしょうな」
「女王をはじめ、王室メンバーと廷臣……白鳳三機、全部一度に飛ばさなくてはなりませんか……」
高野と大石は顔を見合わせたまま、頭の中ですばやく護衛機の編制を練りだした。
イーサ泊地も空襲に見舞われだした今、基地からそれほど多くの戦闘機を割くことは出来ない。
万が一、例の円盤機に襲撃されても十分対抗しうる万全の護衛体制をとるには、本土から相応の飛行隊を差し向けるしかないか――
「しかし……チャーチル卿は以前から王室亡命の護衛を依頼してきてましたから、一も二もなく賛成するでしょうが、肝心の女王がうんと言われるかどうか。陛下はなかなかに、その、負けず嫌いな方でして」
「そんなもん、貴様が説得申上げろ!」
大石と高野がそんなやり取りをしていたちょうどそのとき――外務省からの緊急連絡が届いたのである。

木戸は渡された紙片の文字を二度読み直し、視線をようやく上げた。
「マーガレット女王が失踪されました……しかも行き先が日本らしい」
一同は驚きのあまり、声もなく木戸を注視した。
「現在日本に向け飛行中の白鳳一号機に、女王が身分を偽って搭乗されているらしいのです。旅券名義はマロウェイ伯爵令嬢、レディ・モニカ・カーマイクル……。ご無事を確認してほしいと英国政府が極秘に問い合わせてきています」
「しまった……! 先を越されたか……!」
呻くような大石の声だった。
彼は大きく目を見開いて虚空の一点を睨み据えていた。
「どういうことだ! 大石」
「なにか心当たりがあるのですか」
高野らの問いかけに大石はぐっと拳に力を込めた。
「実力行使に出たんですな……たぶんかなり前から白鳳の利用を計画していたのでしょう、私に黙って。反対されるのはわかりきったことですから」
……ああもう、なんてことをしでかしてくれるんだ! 無茶すぎる!
大石は苦りきった。
「かねてから危惧しておりましたが、女王は向こう見ずなところがあり、思いつめると思い切った行動に出る方です。それを承知していながら……」
言葉を切った大石の眉間に、今度は苦しげな皺が刻まれた。
そう、予兆はあったのだ。
停戦後に受け取った、あのいつもより余裕のない手紙。
退位の準備を進めているという一文。
……ああ、あのとき無理をしてでも直接会っておけば!
「すべて、未然に防げなかった私の落ち度です。申し訳ありません」
両手を机につくと大石は深々と頭を下げた。
「大石さん、それでは女王はあなたを追って……」
「ええ、間違いないでしょう……」
大高たちは顔を見合わせた。

「とにかく白鳳に連絡を。白鳳は今どのあたりですかな?」
「日本到着は夕方です。今はまだカナダ上空でしょう」
「途中で引き返すわけにはいかんでしょうな、白鳳は」
「とりあえず女王の無事だけは確認しないと」
驚きから立ち直ると、彼らはすぐにきびきびと動き出した。
「ホロムシロ基地だ! あそこの航空隊がアリューシャン沖で米軍機と白鳳の護衛を交代しますから、基地に連絡すればいい。軍令部に行ってまいります!」
「私も情報を集めてきましょう」
高野と木戸が急ぎ足で戸口に向かった。
「お願いいたします」
大高が二人の背中に頭を下げる。
大石も黙って頭を下げた。
「おい……」
いったん部屋から出かけた高野が引き返してきて、大石の肩を掴んだ。
「女王が思いつめて貴様を追っかけてきた、ということだが……まさか」
高野は戸口まで大石を引っ張ると小声で囁いた。
「まさか貴様、他に思い当たることがあるんじゃないだろうな?」
真剣な高野の目を大石は数秒の間、無表情に見返していた。
そして高野の言葉の意味を理解すると、フッと視線をはずしほろ苦い表情になった。
「いいえ、それはありません。ご安心を」
「そうか。……すまん」
視線を落とし頷くと大石の肩を叩き、高野は部屋を出て行った。
高野らしい気の回し方に、大石はしばし口許をへの字にしていたが、すぐに元の神妙な表情に戻った。

木戸が外務省に戻り、高野が軍令部に連絡に向かい、日当たりのいい首相執務室には大高と大石だけが取り残された。
うらうらと差し込む暖かな日差しの中で、大石は所在なく立ち尽くす。
……どうするのだ、いったい……!
困惑に続いて、恐ろしい不安に大石は捕らわれた。
白鳳には護衛機がついているとはいえ、北海航路はかなり危険になってきている。
つい先週も北海上空で数十発の機関砲弾を機体に浴びて、白鳳乗組員に負傷者が何人も出たくらいなのだ。
不安と焦燥が混ぜこぜになって大石を襲う。
……ああ、マーガレット! もしあなたに何かあれば……!
「ご到着は夕方になりますな。すぐ宿舎を準備いたしませんと」
そんな大石に大高は微笑しておっとりと話しかけた。
大石は意外そうに総理の顔を見た。
「今夜にも恋人に逢えるのですよ、大石さん。さぁ忙しくなりますぞ」
悠揚迫らぬ大高の温顔を大石は声もなく見つめた。
……容認するというのか。英国がどう出るかわからないのに。
大高の厚情に打たれて、大石は面を伏せた。
「……申し訳ありません……」
国益も大事にするが個人の幸せも決しておろそかにしない大高に、大石はあらためて心から頭を下げるのだった。