◆早春〜続き
グリーンランドを越え、デービス海峡を渡り、危険な北極海を避け一気に南下――
白鳳はカナダ・オンタリオ州のムースニー飛行場にいったん着陸し給油を受けた。
ムースニーからはまっすぐ西に進路を採り、比較的安全なカナダ上空を横断して太平洋へ抜け、あとは一路日本を目指す。
アリューシャン沖にかかったところで、仮眠をとっていた乗客もぽつぽつと起き出し、手空きの乗組員が機内食を配って歩いた。
往路の機内食は海軍基地の握り飯だが、復路はムースニーで仕入れたランチボックスで、中身はたいていピクルスのサンドイッチにハムである。
乗組員がサンドイッチを平らげ終わった頃、電探に機影が映った。
敵機ではなく、ホロムシロ航空隊の護衛機である。
ここまでの護衛を勤めてくれた米軍機が、追い抜きざまに翼を左右にバンクして別れの挨拶を送り、米本土へと引き返していった。
入れ替わりに日の丸を翼につけた編隊が軽快なエンジン音を響かせて前方に現れた。
ここからは日本の戦闘機が護衛にあたる。
顔なじみの僚機の出迎えを受けて、白鳳のクルーもほっとした笑顔を浮かべた。
護衛機はすばやく陣形を開き、一隊は白鳳をしっかりと取り囲み、もう一隊は旋回して援護の態勢をとった。
「おや、えらくたくさんで来てくれたな?」
「なにか危険な兆候でもあったのか?」
いつもより格段多い護衛機の数に、白鳳クルーは不審げにささやき交わした。
「発光信号だ。何か言ってきてるぞ」
無線封鎖中の白鳳にむけて、並走する直掩機がチカチカと発光信号を送り始めた。
操縦要員室の後方で西岡機長は額にしわを寄せて考え込んでいた。
彼の手にはつい今しがた電信員が護衛機から受けた通信文が握られている。
軍令部からホロムシロ基地、ホロムシロ基地から直掩護衛機と引き継がれて送られたその通信内容は、にわかには信じがたいものだった。
『マロウェイ伯爵、令夫人、そして令嬢に注意されたし』
『英国政府の情報によれば、マ伯令嬢こそ英女王御本人なるべし』
『女王の無事を確認し、日本まで厳重に警護すべし』
この白鳳に英国女王が身分を偽って搭乗している?
なんだって女王が?
事情も理由もわからないが、とにかく確かめなくてはならない。
西岡は釈然としない表情のまま腰を上げた。
短い口ひげを生やした日本の軍人が通路をまっすぐこちらにやってくるのを、伯爵はひやりとした予感を持って見つめていた。
彼は間違いなく自分を、そして女王を見ている……。
伯爵の不安は的中した。
口ひげの軍人は伯爵たちの前で静止し、丁寧な敬礼をして寄越した。
「マロウェイ伯爵、機長の西岡大尉と申します。大変失礼します、マダム、レディ・マーガレット」
声を潜めながらも西岡は、マーガレット、とはっきり意味ありげに発音してみせた。
伯爵たちはぎょっと表情をこわばらせた。
「伯爵、少しお尋ねしたいことがありますので、乗組員室までご足労願えませんでしょうか。いえ、お時間は取らせません、書類上のほんの形式的なことですので」
そう物柔らかに言いながらも、西岡の目は伯爵の目をぴったりと見据えていた。
「ご事情は英国政府から承っております」
「……!」
伯爵とレディ・クレアは蒼白になった顔を見合わせた。
万事休すか……!
こわばった表情で伯爵が席を立とうとしたとき、女王がすっと立ち上がった。
「わたくしが参りますわ」
ほんの短い一言ではあったが、それはやさしくも威厳に満ちた心惹かれる声音だった。
このひと声で、半信半疑だった西岡は彼女がマーガレット女王その人であることを確信した。
西岡は要員室の後部座席に女王を案内した。
女王はいとも優雅な足取りでランチボックスの残骸が散らかった簡易テーブルの横を通り、長いすになった座席に腰を下ろした。
すぐ横で休憩していた交代要員が突如舞い降りたすらりとした美女に慌てて居住まいを正した。
「……それで、あなた方はどんな命令を受けてらっしゃるの?」
真紅の高貴な唇が微かに動いて言葉を紡いだ。
西岡は目の前の女王にいささか上がり気味であった。
彼はぐっと唾を飲み込むと慎重に言葉を選びながら答えた。
「ご安心下さい、あと四時間で本機は予定通り日本に、霞ヶ浦に到着いたします」
「それではこのまま日本に?」
「はい、陛下」
西岡はそう答えた後、しばらく口ごもっていたが思い切って小声で問いただした。
「……女王陛下なのですね、ほんとうに」
彼の質問に目の前の女性は淡い微笑を唇に浮かべ、ゆっくりと肯いてみせた。
麗しい女王の微笑を受けて、西岡は思わず背筋を伸ばしカチッと軍靴の踵を合わせた。
直立不動の姿勢のままで、彼はきびきびと受令内容を伝えた。
「高野軍令部総長からの要請をお伝えします。到着後はすぐに降りられずに、しばらく機内にてお待ち下さいますよう。人が少なくなってからご案内いたしますので。なお、霞ヶ浦では大高首相、木戸外相、旭日艦隊の大石提督が出迎えに参じております」
アドミラル・オオイシ!
恋しい人の名を耳にして、青ざめていた女王の頬にほのかな血の色が上った。
「わかりました。お言葉に従います」
すっと女王が立ち上がった。
「ありがとう、西岡大尉」
去り際に掛けられた気品に満ちた柔らかなアルトの声。
西岡はうっとりとその心地よい余韻に浸った。
アリューシャン上空の気流はいつになく緩やかで、フライトは平穏で快適そのものだった。
日付変更線を越え、千島列島を過ぎ、安全圏である本土上空に入ると、白鳳はすぐさま札幌基地に無電を発した。
『ワレ、マ女王ノ無事ヲ確認セリ。到着予定時刻一六○○』