◆早春〜続き

高度を下げた白鳳の丸い窓から霞ヶ浦が見えだした。
瞬く間に眼下に広がった青い水も緑の岸辺も、水蒸気に包まれて柔らかくぼんやり霞んでいる。
水蒸気に包まれたまま早春の西日に照らされて、地上はうっとりと眠たげな黄金色の光彩を帯びていた。
機長から着水時の衝撃に備えるようにとのアナウンスがあり、シートベルトを着けた乗客がいっせいに防御の姿勢をとる。
ほどなく水面に激しい水しぶきを上げて白鳳は着水した。
水しぶきは翼の下で幾つもの虹を作り、湖面を滑水する白鳳の後ろには白い航跡が長々と延びていた。
長い滑水のあと白鳳の巨体が完全に停止すると、湖面いっぱいに広がった波紋も夕風に騒ぐさざ波に紛れていった。

桟橋に係留された白鳳から、やがてぞろぞろと乗客が家族ごとに固まってタラップを降りてきた。
どの乗客も長旅の疲労の色を滲ませてはいたが、みな一様にほっとした表情で地上に降り立つ。
乗客のあらかたが桟橋を渡り終わった頃、機長の西岡大尉が乗客室に顔を見せた。
空っぽの乗客室にぽつんと三人の乗客だけが残っていた。
伯爵一行が西岡の命に従って機内で待機していたのだ。
「お待たせいたしました。ではご案内いたします」
先に立つ西岡のあとについて、マーガレットたちはタラップを降りた。
湖畔の夕風が頬につめたい。
水の匂い、土の匂い、そしてまだ熱い白鳳のエンジンの臭いが新鮮な空気に入り混じっていた。
一行が桟橋を渡り終えた頃には人の波はかなり減り、話し声や笑い声のざわめきも遠のいていた。
……大石さまはどこ?
マーガレットの不安げな心の声が聞こえたように西岡が囁いた。
「陛下、あそこに大石長官がおいでです」
西岡の指差す方向に、黒塗りの車が二台ひっそりと木々に隠れるように止めてある。
そして、手前の車のそばに立つ男は――今こちらに気がついたように歩き出した男は――がっしりした肩を揺するような歩き方は――
マーガレットは子供のように駆け出したかった。
しかし砂利道と踵の高い靴、疲労困憊した身体では早足になるのがやっとだった。
でも、大石の表情がわかる距離まで近づくともう我慢が出来なかった。
彼女は駆け出し大石の胸に飛び込んだ。
大石の強い腕が彼女をしっかりと抱きしめる。
……わたくし、日本まで来ましたのよ! 大石さま。
気の遠くなるような安堵感に包まれて熱い涙がマーガレットの頬を伝う。
そっと顔を上げて大石を見上げると、大石の眼も潤んでいるような気がした。
「……お叱りを覚悟で参りました」
マーガレットの言葉に大石は何も答えず、彼女の変装用の黒眼鏡を両手でそっと外した。
青い瞳が泣いていた。
大石はコートの胸ポケットから白いハンカチを出して、マーガレットの頬の涙を押さえた。
「お顔を見たら叱る気がなくなりましたよ……」
包み込むような大石の低いあたたかな声を聞くとマーガレットはまた涙がこみ上げてきた。
「ほらまた泣く……泣き止んでください」
大石は穏やかな微笑を浮かべている。
彼はハンカチを彼女に握らすと、彼女の肩越しに西岡に声をかけた。
「西岡大尉、世話をかけた」
「はっ!」
ふたりの成り行きをあっけに取られて見ていた西岡は慌てて敬礼をした。
その敬礼にやや沈んだ笑顔で答えると、大石は西岡の後ろに立つ伯爵夫妻にも目礼を送る。
「長旅でお疲れでしょう。とりあえず宿舎を用意しておりますのでご案内いたします」
止めてある黒塗りの車を伯爵夫妻に指し示すと、大石はマーガレットに小声でささやきかけた。
「大高総理と木戸外相があちらにおります。挨拶だけ先に済ましておきましょうか」
大高たちは車から出てくるところだった。
マーガレットは涙を拭うと大石の腕に手を預けてしゃんと身体を起こした。

いつもの大石ならすぐに気がついたかもしれない。
マーガレットの手は冷たく、顔には血の気がなかった。
歩き出してすぐ彼女は力なく膝をついてしまった。
慌てて抱き起こした彼女はぐったりと目をつぶり辛そうだった。
大石が車に急を知らせようと立ち上がりかけたとき、マーガレットが薄く目を開け大石を制した。
「……めまいがしただけです。もう大丈夫です」
「しかし」
「本当に。私、飛行機で一睡も出来ませんでしたの。だから気分が悪くなってしまって」
マーガレットの元に人が駆け寄り周囲は急に騒然とした。
「どうなされました!?」
「倒れられた!」
その中でマーガレットは弱々しくはあったが目を見開き大高の姿を探した。
「……大高閣下?」
「はい、私が大高です」
大高が頷いて彼女の前に進み出た。
「大高閣下……ご無礼をお許しください。ご挨拶を申し上げたいのですが……」
「どうか今日はもうご休養ください……あ、陛下」
マーガレットは再びがっくりと崩れ折れ、気が遠くなったのか大石の腕の中でそのまま目を閉じてしまった。