◆早春〜続き

首相執務室には紫煙が立ち込めていた。
木戸と高野の前に置かれた灰皿はすでに吸殻でいっぱいになっていた。
タバコを吸わない大高は両手の指を組んで目を瞑り、ソファーに深々と身を沈めている。
どの顔にも疲労の色が浮かんでおり、三人の間には虚脱したような沈黙が漂っていた。
まったく目の回るような一日だった。
白鳳到着までに宿舎や警備等の女王受け入れ態勢を整え、とにもかくにも霞ヶ浦に駆けつけ――そして出迎えたとたん、肝心の女王が倒れてしまい現地で医者だ病院だと慌てることになった。
幸い、過労と緊張からきた軽度の貧血ということで、女王はそのまま大石に伴われて帝都郊外に用意された宿舎で休養することになった。
女王は大石に任せて、彼らはまた急いで首相官邸に引き返した。
官邸には外務省経由の暗号電文やオミットされて憤慨している英国大使が、彼らの帰りを今か今かと待ち構えている。
英国大使に女王が無事日本に着いたことを伝えると、大使は直接連絡を取らせてくれと執拗に迫ってきた。
しかし、大高はなんといわれても警備上の安全を盾に取って、女王の所在を明かそうとしなかった。
「即刻送還というような強硬な要求を突きつけてくるかも……と、少々心配していたんですが杞憂でしたな」
後日必ず拝謁できるよう取り計らうからと宥められた英国大使がようやく退出したあと、木戸はそう大高にささやきかけた。
「どうやら英国も大石さんとのことを察知しているような気がします。もはや女王退位も想定範囲内のような。これは女王が事前に退位を仄めかされていたとか……?」
「さあなんとも……できればこちらも早急に、詳しい事情をお聞きしたいところですが」
大高は思わしげに視線を宙に浮かした。
「ご回復の具合によりますかな。もうお休みになったでしょうか」
木戸はちらりと壁の時計に目を向けた。
時計の針はとうに十時を回っていた。
「まったくあいつは連絡もよこさず、なにをやっとる……」
むすっとした表情で高野がぼそりとつぶやいた。

またもや放心したようなぽっかりとした沈黙に三人は身をゆだねる。
……疲れた……だがまずまず上手くいった……あとは大石からの電話を待つのみ……。
ゆらゆらとタバコの煙だけが揺れる。
高野の指先から、木戸の手許から、紫煙はたゆたいながらゆっくりと漂い流れる。
その煙の流れを見るともなく大高は眺めていた。
「……女王陛下が密航して来日とはいまだに信じられない思いですな」
感慨を込めた大高の呟きに
「まぁ密航といっても、イギリスのパスポートは女王の名で発行されますからな。つまり女王ご本人はパスポート不要なわけでして」
と、茶目な表情で高野が応じる。
「チャーチル卿あたりはカンカンなんじゃないですか? 女王に無断旅行・無断外泊されては」
「これこれ、女王陛下を家出娘扱いしては不敬ですぞ」
そんな軽口のやり取りに、一座に低い忍び笑いが広がった。
「……ですが、われわれもその片棒を担ぐわけですな。恋人との逢瀬の後押しをするのですから」
と、笑いをこらえながら大高。
「まったく無鉄砲なお方ですな。大石の言うとおり、とんでもないジャジャ馬であられる」
「ま、こうなった以上は、結婚の時期が早まっただけ、と考えればいいのではありませんか?」
「結婚?! 今ですか」
驚いた顔になった高野に、にっこりと大高が微笑み返す。
「大石さんはもうそのつもりですよ、こうなった以上。それが自然な成り行きではありませんか」
「うーむ、それは……そんなことになって英国になんと説明される?」
「なんの英国。英国に遠慮して、愛し合う二人にまったをかけるなどとんでもない。この大高はそれほど野暮ではありませんぞ」
冗談めかして胸を張って見せる大高に、本当に大丈夫なのか? と高野はぎょろりと目を動かして外相を見た。
木戸はいつもの落ち着いた表情で、そんな高野に頷き返してみせた。
「結婚発表と退位宣言を同時に行うことになりますな……いわば奇襲作戦です」
「奇襲……ですか」
奇襲といわれると高野も思い直さないでもない。
「ジョンブルには真珠湾以上の衝撃になるかもしれませんが……渋々事後承認する形になれば、英国政府の体面も保ちやすいでしょうからな」
ニマリ、と濃い髭の中で木戸が不敵に笑ってみせた。
外交駆け引きを知り尽くした木戸外相のしたたかさに、高野は腕組みして思わず唸ってしまった。

首相執務室の黒い電話がけたたましく鳴った。
ソファーから泳ぐようにして立ち上がると、大高は執務机の上の受話器を取った。
「はい、大高です……おお、大石さん」
待ち受けていた大石からの連絡に、大高はほっとした表情を見せた。
「はあ……はい……それはよかった……」
大高は電話の声にほほえみながら何度も頷いてみせる。
女王は少し眠ったあと、軽く食事を摂り、今またお休みになられた――この分だと一晩ゆっくり眠れば明日には元気になりそうだ――電話口の向こうの大石はさすがに疲れた声で、そう女王の様子を伝えてきた。
「おお、そうですか、安心いたしました。……いえ大石さん、それには及びません。あなたもお疲れになったでしょう。すべては明日にいたしましょう……ちょっとお待ち下さい」
大高は高野と木戸を振り返った。
「大石さんがこちらに戻るとおっしゃっているのですが」
「私が代わりましょう」
高野が立ち上がって電話機のそばに歩み寄ると、大高から受話器を受け取った。
「……もしもし、電話を代わった……大石、今夜はもう貴様に用はない……ばかもんッ! 帰るやつがあるか。女王をひとりでほっとくつもりか!? 今夜はそこにいろ、これは命令だ! ……わかったな?」
高野は電話口で大石を怒鳴りつけると、涼しい顔で電話を切った。
「おやおや、粋なことをなさいますな」
大高が顔をほころばせた。
「月下氷人というところですかな」
木戸も首を傾げて可笑しそうに微笑む。
「いやいや……」
照れたように高野が首を撫で回した。
「さて、われわれもひとつ遅い夕食といたしましょうか……」
「男三人とは侘しい限りですな」
「ははは……」
三人は疲れた顔を見合わせて笑いあった。
女王と大石に振り回された長い一日がようやく終わろうとしていた。

……命令だと言われてもな。
高野に一方的に切られた電話に大石は苦笑しながら受話器を戻した。
チン、と黒い電話が小さく鳴り、大石ひとりの応接間はまた静かになった。
女王は二階の主寝室で眠っており、彼女にはレディ・クレアがつきっきりなのだ。
一晩女王のそばから離れるなと言われても大石の出番はない。
ともあれ電話連絡を終えた大石は、応接間から薄暗い廊下に出た。
広い邸内は森閑として底冷えした。
ここは女王一行の宿舎として、大高首相が急遽借り受けた財閥I家の別邸である。
英国留学経験があり英国流生活の信奉者であったI家先代当主が、照和初期に建てたモダンな洋館だ。
チューダー様式の特徴である太い梁が、壁に黒々とした影を落としながら廊下を渡る大石を見下ろしていた。
玄関や階段室に詰めている警護の警官たちに一声掛けると、大石は重厚な造りの階段をゆっくりと二階へ上っていった。