◆春昼閑なり


艦の中が静かな気がする。
非番の乗組員が上陸していて艦内は閑散としている。
今日は日曜日。
大石もいない。
艦長もいない。
あの目障りな磯貝参謀もいない。
原は椅子に掛けたまま思いっきり伸びをした。
開け放たれた舷窓からは眠気を催す春の日差しがうららかに伸びていた。
窓の外の海面は鏡のように滑らかで、ぴちゃぴちゃという波の音がときおり聞こえてくる。
何もかもが眠たげで、日本武尊もスカパフローのようやく訪れた春の日差しの中で午睡をとっているようだった。


舷窓から差し込んでできた楕円形の陽だまりが、参謀長公室の磨きこまれたリノリウムの床の上をゆっくりと移動していく。
日曜の午後の、珍しくぽっかりと空いた時間。
机の上にはぬるくなった紅茶のカップが置かれている。
いつになく手持ちぶさたな原の脳裏に、とりとめもない考えがふわりふわりと脈絡もなく浮かんでは消えていった。
……俺は暇なときはいったい何をして過ごしていたんだっけ?
日本武尊での毎日があまりにも忙しすぎて、原は休日の過ごし方をすっかり忘れてしまっていた。
……本でも読んでいたっけ?
原はちらりと傍らの公室備え付けの書棚に目を遣ったが、書棚には分厚い便覧が整然と並んでいるだけで、息抜きになるような本は一冊もなかった。
原自身、出撃以来、書類と関連論文以外に目を通した覚えがまるでない。
旭日艦隊にきてからの原は度を越した仕事人間になってしまっていた。
べつに彼が好きこのんで仕事にどっぷり浸かっているわけでなく、仕事のほうで行き場をなくして彼のところに集まってくるのである。
いいかげんな大石、ぼんやりとした磯貝からザァザァと雑務が漏れて流れて、原という実務に長けた人間のところでやっとまとめて処理される仕組みに、いつの間にかなってしまっている。
……俺がやらなきゃ、司令部が混乱してしまうからな。
原もそう諦めてしまっているが、それにしてもこれほど滅茶苦茶な司令部ははじめてだった。
彼から余暇を根こそぎ奪ってしまう、理不尽な職場といえた。
はてしない時間外勤務とストレスの嵐。
……なんでこんなところに来てしまったんだろ。
古巣の海軍省がつくづく懐かしい。
忙しくとも、あそこでは課員すべてが忙しかった。
けっして原ひとりがこま鼠のようにてんてこ舞いしなくてもすんだ……。


……そうだ、海軍省といえば。
原は椅子に座りなおすと、机の引き出しから巻紙に墨書の立派な手紙を取り出した。
先日重要書類一式が軍令部から届けられたが、この手紙は司令部への文書とは別にわざわざ原個人に宛てられたものだった。
差出人は高野五十六。
こんなところへ彼を送り込んだ張本人だ。
勢いのある筆跡を原は人差し指でそっとなぞってみる。
温かな筆致、高野本人を映したかのような情味豊かで肉厚な筆蹟。
懐かしい元上司。
そして敬愛する同郷の大先輩でもある。
原は高野のむっつりした顔を思い浮かべた。
いつも不機嫌そうで無愛想だったが、それでいて周囲に温かな気遣いを忘れたことがない高野。
どんな小さなことも見逃さない鋭さを持ちながら、高野のまなざしには常に部下への愛情が溢れていた。
この手紙にも高野らしい親身な励ましの言葉が連ねてあり、その情愛は疲れた原の心に慈雨のように沁みこんだ。
高野のやさしさがうれしく懐かしく、何度も何度も読み返して、原はこの手紙の一字一句すべてを暗記してしまったほどだ。
この高野に忙しさに取り紛れたおざなりな返信は出したくなくて、ついつい受け取ったまま日にちがたってしまったが、今日なら心のままに素直に近況を書くことが出来るような気がする。
原は引き出しから便箋を取り出すと、万年筆を滑らせておもむろに返信をしたためだした。

  尊書拝受仕り候 恐縮に堪えず 有難く拝謝し奉り候
  閣下愈々(いよいよ)御清穆(せいぼく)に渡せられ候段 敬賀し奉り候――

ここまで一気に書いておいて、原は冷めた紅茶のカップに手を伸ばした。
ごくり、と一口喉を潤すと、原はカップを手にしたまま視線を宙に浮かした。
原の目の前に、遠い日本にいる高野総長の懐かしい幻影がぼんやりと像を結びだす。
……総長、お元気ですか? 私は何とかやっていますよ。旭日艦隊は諸事順調、どうぞご安心下さい。おっしゃってた通り、大石長官は大変優れた指揮官です。万事に天才的で、まったく突拍子もないことを考えつく天才です。
フッと原は苦味の混じった微笑を唇の端に刻んでみせた。
世界中の記者たちを相手にしてのあの巧みな弁舌といい、戦闘を一大デモンストレーションに仕立て上げてしまうところといい、大石はまったく只者ではない。
原は雄弁で演出上手な大石長官にすっかり兜を脱いでいた。
……私の出る幕なんてありません。たいした役者ですよ、あの人は……。ただ、戦略だけでなく日常生活でもそうなので、私は振り回されっぱなしですが……。
何を言い出すかわからない。
何を考えているのかもわからない。
大石が耳たぶに手をやって、にやりと原に笑いかけたときには、すでに大石の頭の中には何らかの策が組み立てられているのだ。


原にも諮らず一足飛びに奇策を進めてしまう大石に業を煮やして、そういうことは事前にご相談下さい、と面と向かって苦情を申し立てたこともある。
『長官のなさりようでは、私がなんのために参謀長としてここにいるのかわかりません。私では心許無いということでしたら――』
意を決して長官室に出向き、大石の前でそう言いかけると
『いやいや、そうではない。すまなかった、けっして君をないがしろにしているわけではない』
大石は原の言葉を押し留めると、真顔でしっかりと原の目を捉えた。
熱い、真情のこもった、有無を言わせない強い視線だった。
『俺のやり方が変則的なことは自覚している。俺は自分の思い通りにやらないと気のすまない性質だ、すまん。君が不快に思うのは無理もない』
大石の力強いまなざしに捉えられて、原は魅入られたように立ち尽くした。
『だが俺には実務に長けたパートナーが必要なんだ、君のような有能な参謀長が。原くん、俺には君がどうしても必要なんだ』
そう言いながら、大石は原の両肩をがっしりと掴んだ。
自分を熱く見据える大石の炯々たる眼光、肩に食い込む大石の手指。
原はもう何も言えなかった。
――君が必要。
いわゆる殺し文句である。
自分がそんな陳腐な殺し文句に丸め込まれてしまうとは、原は思ってもいなかった。
だが、大石の手を肩に感じながらそんな言葉を耳にすると、不覚にも胸が震え目頭が熱くなるほど感動してしまったから、なんとも妙なものだった。
……そんな魔力のような魅力をお待ちです、大石長官は。
原はお手上げだと言わんばかりにため息をついた。
まったく大石は人の心を捉えるのが非常に上手かった。
大石独特の熱っぽい説得にあえば、たいていの人間は降参してしまうだろう。
高野もカリスマ的な魅力を持つ男だったが、彼は基本的に口が重いうえに存外シャイな気質である。
ポーカーフェイスでは負けていないが、大石のように臆面もなくムードで人を酔わせるタイプではない。
……あの押しの強さがくせものなんですよね。
気力と胆力に裏打ちされた持ち前の熱気と弁舌で、人をここちよく酔わせていつの間にかすっかり従わせてしまう大石。
自信に満ちた強いまなざし、陽気な笑い声、そのくせどこかシニカルな洞察力、すべてが原を幻惑し迷わせる。
要するに高野よりもずいぶんと危険な上司なのだ――大石という男は。
それが困るのか嬉しいのか、原は自分でも判断がつかなくなっていた。


     ※     ※     ※


海軍省庁舎の奥の総長室のドアは今日も開け放たれたままで、書類を抱えた副官がときおり行ったり来たりしていた。
高野総長は楽な姿勢でくつろぎながら、スカパフローから届いた原からの手紙を手にしていた。
便箋を埋める右肩の上がった神経質そうな原の癖字が目に懐かしい。
高野の海軍次官時代には、原の細かい癖字の書類が彼の周りに溢れていたものだ。
原の手紙の大部分が、大石長官の日頃の言動とそれに振り回されている自身の状況説明に費やされていた。
大石、大石……原の候文の中に何度彼の上官の名前が繰り返されていたであろう。
文面を読み進める高野の頬に、いつしかほろ苦い笑みが浮かんでいた。
……察するに、頭の中が大石のことでいっぱい、ということか?

  ――尚ほ御氣付の点等は何卒御垂示を賜りたく願上げ奉り候
  時局重大の際益々御自愛遊ばされたく候         敬具
   照和二十一年四月×日                原元辰
  高野五十六閣下

あくまでかしこまった原の文にしばし目を留めてから、高野はゆっくりと便箋を元通りにたたんだ。
高野の目が柔らかに笑ってしまっている。
……つまり、これはのろけだな。
手紙の文面からは原のしかめっ面が目に見えるようだ。
きつい目許をほんのり染めて、どこか照れくさそうに眉をひそめてみせる原の美貌が……。
「俺はこう見えても人を見る目があるんでね」
「は?」
高野のつぶやきに、書類の部数を確認していた副官が驚いて顔を上げた。
「つまり、俺が仲人をした夫婦はどこもうまくいっているってことさ」
「は……?」
不審な表情で仕事の手を止めてしまった副官に、高野は茶目っ気たっぷりに笑いかけると、またそ知らぬ顔で山のような着信に目を通し続けるのだった。



 ※参考図書
 「昭和十四年二月 書翰文参考書」 海軍兵学校
 「山本元帥 前線よりの書簡集」 廣瀬彦太編/晴南社