◆太極の波紋
作戦室は水を打ったように静まり返っていた。
日本武尊の幹部たちと司令部参謀が、緊張した面持ちで話に聞き入っている。
太極計画の説明が大石と原からなされたのだ。
講和の決め手に軍縮問題を日本側から持ち出そうというのが、太極計画である。
――日本武尊、北極海にて消息を絶つ。
そんな情報を全世界に流しつつ、日本武尊は秘密基地に密かに隠される。
X艦隊は噂にすぎず、日本武尊はすでに沈んでいる……大高首相は講和会議の席でそう押し通そうというのだ。
遠からず、日本武尊乗組員の家族のもとに彼らの戦死の通知が届けられる予定という。
戦没者の名簿に名を連ねてしまえば、もはや故郷に帰っても、家族に会うこともできない。
来るべき次の戦争まで、潜伏を余儀なくされるのだ……。
一同の表情が暗澹としたのも無理はない。
「……すまん。苦労をかける……」
大石が深々と頭を下げた。
「……これはまた難儀なことになったなぁ」
木島がぽつんとぼやく。
あまりのことに、木島と早水は魂が抜けたように、航海長休憩室のソファーに座り込んでいた。
軍人として、戦死する覚悟は短剣を腰に吊ったときからできている。
しかし、生きた英霊になれとは思いがけない命令だった。
この肝の据わった海軍軍人もあまりのことに途方に暮れていた。
「……明日から死人だと言われてもねぇ」
「家族のことを思うと辛いわな」
木島のぼやきに早水が力なく答えた。
「いったいいつまで死人になってなきゃいけないんだろ? まさか一生ってわけっては……」
「うーむ、一年か、五年か、もっとか……」
「それじゃあ、娘の結婚式にも出てやれん」
木島がひげ面を曇らせた。
普段は滅多に見せない、砲術長の気弱な表情だった。
「木島さんちはもうそんな年頃なのかい」
意外そうに早水が聞き返す。
「ああ、ことし二十歳になる。そろそろ縁談も出てくる年だよ」
「そうだなぁ……」
「本当に俺が死んだんだったら諦めもつくんだがなぁ」
「まったくだ……」
早水は力のない相槌を繰り返した。
彼はさっきから胸の内ポケットの上に手をやっていた。
内ポケットには彼の自慢の美人妻の写真が入っている。
「なぁ木島さん、俺は遺書を残してきたんだ。俺が死んだら遠慮せずに再婚するようにってな……」
「早水さんの奥さんはいくつだっけ?」
「三十四……」
「美人なんだってな」
「うん……」
「やばいな、それ」
「うう……」
早水は頭を抱え込んでしまった。
磯貝は作戦室で説明を聞きながら、涙が溢れてくるのを必死でこらえていた。
しかしこらえきれずに、ぽたりと涙が膝にこぼれた。
出撃してから五年、最近届いた家族の写真ではめっきり老け込んで、ひとまわり小さくなったような故郷の父と母のことを思ったのだ。
老いた両親は長男の戦死の知らせにどんなに嘆き悲しむことだろう。
「元気カ、変ワリハナイカ、体ヲイトウテゴ奉公ナサレ」
決まって同じ文面を書いて寄越した、無口な職人気質の父の寂しげな背が目に浮かぶ。
ましてや体のあまり丈夫ではない母が気懸かりだった。
最愛の息子を失う悲しみは、母の老い弱った心身を一気に損ねることになりかねない。
そして彼を愛してやまない、優しい姉は……。
(姉さんを悲しませてしまう。きっと姉さんは泣いて泣いて……)
姉のことを思うと、ぽたり、と涙がまた膝に落ちた。
艦長室では富森と副長が向かい合っていた。
ふたりとも深刻な顔つきだ。
「正直言って、乗組員にこんな命令を伝えたくありません」
副長はちらりと富森の顔に目をやって、遠慮がちに言葉を続けた。
「死はもとより覚悟している彼らでも、残してきた家族を捨てよと命令されては堪りますまい……」
「うむ……」
黙って聞く富森の目の光も暗く沈む。
「磯貝さんが泣いていましたね」
副長も見ていたのだと富森はうなづいた。
「若い人にまで世捨て人になれとは、まことにむごい……」
「うむ……」
乗組員四千名の涙はもとより、それぞれの係累の何万人もの涙の重さを思うと、人情家の富森には断腸の思いがするのだった。
人の生き死にを術策の具としてよいものだろうか?
個々の命を軽んじた前世の過ちを繰り返すまいとして、我々はこの後世に転生してきたのではないのか?
大石や大高たちの目指す、恒久平和という大義もまた、個人の幸福を犠牲にして得るものなのだろうか?
富森は舷窓の外に目を向けた。
……大石さん、これで、本当によろしいのですかな?
舷窓の外には荒れ狂う北海の怒涛があった。
遥か後方の冷たい氷海が彼らの偽りの墓場と決められた。
そして今、四千人の生きた英霊を乗せて、日本武尊は鉛色の冷たい海を独り進んでいる。
千島列島の孤島にあるという、つかの間の休息地を目指して……。
――――照和二十五年冬、多数の犠牲者を出して第二次世界大戦は終結した。