◆他人のベッド〜続き


……あれ? 静かになったと思ったら。
磯貝がふと報告書から顔を上げると、原はベッドに倒れてすうすうと寝息をたてていた。
……あーあ、また。よほどお疲れなんだなぁ。
居眠りだろうと磯貝は彼をそのままにして再び机に向かう。
報告書を書き進めながら、ときたまベッドの原の様子をちらりちらりと窺う。
原は一向に起きる気配を見せない。
磯貝は首をちょっとかしげると、椅子を立った。
眠っている原が下敷きにしてしまっている書類をそっと取り除けてやる。
投げ出された脚から靴を脱がして、両足もベッドの上に乗せてやる。
「フウ……」
楽になったよ、とでも言いたげな吐息をついて、原は磯貝のベッドに長々と伸び、ごそごそと枕を探し当てると本格的に寝る体勢に入った。
「参謀長?」
本格的に寝るんならご自分の部屋でお願いしますよ――そう言いかけたが、枕に頬を乗せた原の表情があまりに気持よさそうだったので、磯貝は出かけた言葉を飲み込んでしまった。
長いまつげが頬に影を作っている。
口許は少し笑っているような優しい曲線を描いている。
……もう、仕方がないなぁ。
磯貝は見惚れながらも困ってしまう。
……参謀長は寝起きがとても悪いんだから。無理に起こすとものすごく不機嫌になるし。
「あのう、転寝してると風邪を引きますよ……」
恐る恐る磯貝は声を掛けた。
声を掛けたぐらいで起きるわけはないと思いながら。
案の定、原はまったく目を覚ます気配がない。
どうやら熟睡してしまったと悟って、磯貝は諦め顔になり寝ている原に文句をつぶやき始めた。
「そんなに眠いんなら無理せずに早めに休んだらいいのに」
気持良さそうに寝息を立てている原に、磯貝はそろそろと毛布をかけてやる。
「おまえのせいで三時間しか寝てないとか、厭味を言うぐらいならさっさと休んでくださいよね。すぐ風邪を引くくせに人のベッドで転寝なんかして……」
ぶつくさ言いながら磯貝は原の肩口をしっかりと毛布で包み込んでやる。
「ご迷惑をかけているのは心苦しく思っております。でも、やいやいせっつくのはたいがいにしてくださいよ」
起きている原に面と向かっては絶対言えない事を磯貝はぶちぶちとこぼす。
「誰もが参謀長と同じ水準で仕事をこなせるわけないですよ。完ぺき主義をやめて、任せるべきところは任してしまうべきです……そんなんだから、ひとりで全部仕事を背負い込んでしまうんです」
寝ている原に向かって、磯貝は普段の不満の棚卸しも始めた。
「なんのための大勢の幕僚かわからないですよ……長官はせっかく立てた作戦を土壇場で変更するし、参謀長は報告書の出来が気に入らないと一から自分で書き直すし……私は参謀勤務は初めてですが、よその司令部でもそういうもんなんでしょうかねぇ? ……なんかヘンですよ、ここの司令部は」
磯貝は話しかけながら、いつもはこわい上司の顔を仔細に眺めた。
原の寝顔は長いまつげのせいかひどく可憐に見える。
形のいい唇を薄く開いてちらりと白い歯をのぞかせているのも、普段の隙のない様子からは想像つかない愛らしさだ。
原はすっかり熟睡してしまったのか、その口許から軽い寝息をたてて毛布の下の胸をゆっくりと上下させている。
……こうなると起きないもんな、参謀長は。困ったなぁ。
「ちょっと参謀長、人のベッドで寝込まれては困ります……」
磯貝は形ばかり原の肩に手をかけて揺さぶってみる。
もちろん原は目を覚まさない。
肩に手を置いたまま、磯貝はまた原の顔をじっと見下ろす。
……起きているときは人を睨んでばかりいるくせに、寝顔はほんと可愛いんだから。
短く整えられた原の口ひげに、磯貝はそっと人差し指で触れてみた。
……一度触ってみたかったんだな、参謀長のひげ。
一向に目を覚ます気配がないのをいいことに、磯貝はひげを指の腹で撫でてみた。
猫っ毛の原のひげは、やはり柔らかで滑らかなさわり心地だった。
なんとなく肉感を刺激するような手触りに、
「襲っちゃいますよ……」
聞こえるわけないと磯貝は大胆なことを口にする。
「……冗談です、もちろん」
言っておいてひとりで勝手に赤くなりながら、磯貝は眠っている原に弁解した。
「だってあんまり無防備だから、人のベッドで……」
短く刈った頭をかりかりと掻きながら、磯貝は自分の机に戻った。
おとなしく、再び書きかけの報告書に彼は向かう。
いつしか彼は仕事に没頭し、鉛筆のコツコツという音と原の寝息だけが静かな部屋に響いていた。


原が目を覚ましたとき、磯貝の机のライトは消されていた。
原は寝起きのぼんやりした頭で、机の上に報告書がきちんと重ねて置かれているのを、しばらくぼーっと眺めていた。
シャカシャカと歯ブラシを使う音がしている。
ベッドから半身を起こして反対側の壁を見ると、洗面台の前に寝間着に着替えた磯貝が立っていた。
「何時だ?」
原がちょっと寝ぼけた調子で時間を聞く。
「……十一時半でフ」
歯ブラシを咥えたまま磯貝が答えた。
「なに、もうそんな時間か」
小声で原がつぶやく。
身体には毛布がちゃんとかけてある。
ベッドの脇には彼の靴がきちんと揃えて置かれていた。
「……すまん」
ガラガラガラ……。
洗面台では磯貝が口をゆすぎ、ついでにうがいをしていた。
「……え、なんかおっしゃいましたか?」
口元をタオルでぬぐいながら磯貝が聞きなおした。
「いや、なんでもない」
原はベッドに起き直り、靴を履いた。
磯貝の顔が笑っている。
「……なんだ、何がおかしい?」
「いいえ、なにも」
「俺が寝てしまったのなら、起こせばいいだろう」
原は面白くなさそうにむすっとした表情で言った。
「いえ、よく眠っておいででしたから」
よく言うよ、絶対起きないくせに――原の言い草をおかしく思いながらも磯貝はにこやかに答えた。
「ん……面倒をかけたな」
「いいえ、どういたしまして」
磯貝の笑顔に、寝起きの不機嫌な顔のまま原はベッドから立ち上がった。
「報告書は仕上がったようだな」
「ええ、おかげさまで。明朝もう一度見直してから、ご覧に入れます」
「そうか、じゃまた明日」
「ありがとうございました。おやすみなさい」
「ああ」
原はそそくさと磯貝の私室を後にした。
何時間も寝顔を晒していたかと思うときまりが悪い。


……あはは、参謀長ったら可愛いな。
原の怒ったような照れたような、しかめっ面を思い出して磯貝は頬を緩めた。
……そんなに寝込んでしまったのがきまり悪いのかな? だったら人のベッドで横にならなきゃいいじゃないか。俺のベッドでグーグー寝るのは今に始まったことじゃないくせに。
上機嫌で毛布をめくると磯貝はベッドに上がった。
……参謀長の寝顔はもう何度も拝見いたしておりますよ? 何もいまさら恥ずかしがらなくてもなぁ?
磯貝はさっきまで原が寝ていたベッドにもぐりこんだ。
マットレスには原の身体の温かみが残っていた。
初夏でも肌寒いイーサの夜には、ありがたい温かみだ。
……ンフフ。
磯貝は一人笑いをすると、毛布の中で気持良さそうに身動きした。
……海軍中将閣下にベッドを温めていただけて、まことに光栄であります。
暖かなベッドに丸まって、磯貝はすぐにくうくうと寝息をたてて夢の国へと旅立っていった。