◆参謀長を頼む〜続き            


レイキャビクでの会議も終わり、大石はイーサフィヨルズの日本武尊に帰ってきた。
会議では言いたいことは言ってやったし、退屈なときは半分居眠りもしてやった。
つまり、原の代わりに連れて行った真面目な作戦参謀と副官だけで、充分間に合う会議内容だった。
置いてけぼりを食らった原はまだ少し拗ねているようだが、風邪のほうはすっかりよくなったようだ。
……ま、艦に残して休養させたのは、正解だったな。
そんなことを考えながら、大石は艦長室のソファーで富森の接待を受けてくつろいでいた。
「ふう……腹から温まるな、これは」
生姜の香りが大石の手の中の湯飲みからかすかに漂っている。
「封を開けてしまいましたので、早く飲みませんとな」
富森も湯飲みを手にしながら穏やかに応じた。
「それで、原と磯貝は仲良くやっていたのかな?」
大石がにこやかに富森に問うた。
「はい。参謀長はおとなしく自室で休養なさっていました。磯貝参謀が代わりによく働いておいででした」
「そうかそうか、うまくいったんだな」
大石は満足そうにつぶやく。
「なに、磯貝に原を扱うこつを伝授しておいたのでな」
大石がにやりと片頬で笑った。
「ほう、それはそれは」
富森が目を細めて笑い返した。
「よほど艦長にお願いしようかとも思ったんだが」
「いやいや、私などがでしゃばっても」
ふたりは微笑み交わして黙って生姜湯を啜った。
「ところで、磯貝がぎんなんを山盛り食べたというのは本当かな?」
大石は早耳だった。
さっそく従兵あたりに聞いたのだろう。
「山盛りといっても食堂の湯飲み茶碗にですが」
「あんな精の強いものをそんなに食べて、よく腹を壊さなかったな……いや待てよ、たしかぎんなんは強壮剤に使われるんだったか?」
「そういえば、そんなことも聞いたことがありますな」
「ははぁ、ぎんなんの勢いも借りたかな、磯貝のやつ。がつんと勢いをつけて押しまくれ、とアドバイスしたんだが」
「ほほう、そうでしたか」
富森が目を細めて笑う。
「今度あいつがめそめそしていたら、ぎんなんを食わせてやろう。糧食庫にまだあるのかな?」
大石は半分真顔でそんなことを言う。
ぎんなんが効いたかどうかはともかく……磯貝は大石の期待に応えてくれたのである。


そのころ、暖房が程よく効いた参謀事務室では。
原の机のそばで磯貝がせっせと立ち働いていた。
「ちょっとさっきのをもう一度見せてくれ」
「はいっ」
原の横に立って、磯貝がささっと資料を渡す。
「……」
原が黙って受け取る。
磯貝は用事を言いつけられるのがうれしそうだった。
こうして原が仕事をするときに、そばに居させてもらえるのがうれしいのだ。
今までだったら 「邪魔だ」 「気が散るから、向こうへいっててくれ」 などなど、邪険にされてばかりだったのだから。
「悪いが去年の資料も持ってきてくれないか?」
「はいっ」
嬉々として磯貝が資料棚に走る。
埃とカビの臭いのする分厚い綴じ込みのページをパラパラとめくって、磯貝はくしゃみをした。
ひっくしゅん!
「どうぞ」
該当のページを開けた綴じ込みを受け取りながら
「俺の風邪がうつったんじゃないか?」
周囲の耳に入らぬよう小声になって原は磯貝の顔を見ながら案じた。
「え、違いますよ。埃のせいです」
にこっと磯貝が笑った。
「そうか? ならいいんだが」
原はわざとそっけなく答えると、そのまま書類に目を落とした。
そんな原の横で、磯貝は照れくさげにもじもじとしている。
言葉はそっけなくても、言葉の語尾が微妙に温かいのだ。
少し削げた頬と形のいい耳朶をこちらに見せながら、原は書面に集中している。
磯貝はそんな原の横顔をうれしそうに見守っていた。
今日は付きっ切りで原の仕事を手伝うつもりだった。
(まだまだ参謀長は本調子ではないのだから)
「磯貝、この端を押さえていてくれ」
定規の端を指して原が命じる。
「いいか、動かすなよ」
「はい」
磯貝が定規を図面にしっかりと押さえつけた。
机の上に広げられた図面の上に、ふたりの頭が並んでいる。
さらさらした原の髪と角ばった磯貝の頭。
ふたりの目は原の右手のコンパスの先を追っていた。
「ギリギリですかね……」
「うん……どうかな……」
ふたりの胸の金の参謀飾緒が図面の上に揺れている。
「検証はあとにして、とにかく線を引いてしまうか」
原の言葉にうなづく磯貝。
頭を仲良く寄せ合ってふたりは図面を完成させていく。
大石が見たら手放しで喜びそうな睦まじい光景であった。
「なあ、磯貝……」
手元から目を離さずに、原が話しかけた。
「はっ」
「これが一段落したらお茶でもよばれにいこうか……艦長のところへ」
「はっ、名案であります。きっとまた生姜湯を振舞ってくださると思います」
磯貝の弾んだ返事を聞いて、図面にペンを入れながら原はやわらかく微笑んだ。
舷窓からの午後の光がそこにだけ差し込んだかのような、きらめくような暖かい微笑だった。
――この先またなにか騒動が起きるか、原がカンカンになるような大チョンボを磯貝がしでかすか……そのときまで、ふたりのこの平和は続くだろう……。