◆富森艦長
緑の島々が青い海原に点在するここ、オークニー諸島。
この一角に英国海軍基地スカパフローは位置する。
低気圧が去ったあとで海面にうねりが少々残るが、空、海とも青く晴々とした春の朝であった。
海面に残る朝もやを払って、日本武尊の前方を軽空母尊氏がしずしずと進んでいた。
その尊氏の艦尾からまっすぐ伸びる白い航跡のすぐ後を、日本武尊の巨大な艦首が海面を滑るように続く。
偵察機が数機、轟音を残して上空をよぎり、水道の出口へと飛び去っていった。
ドイツ潜水艦の警戒に就くのだろう。
艦橋には司令長官、参謀長以下の幕僚たち、艦長、日本武尊の幹部たちがすべて集まっていた。
艦橋以外の部署でも、不測の事態に備えて艦内の保安部署に要員が配置されていた。
日本武尊はゆっくりと、狭水道を通過していく。
「取舵!」
ピーンと緊張した空気の張りつめる艦橋で、艦長が落ち着いた声で操艦号令を掛ける。
「トォォリカージ!」
「――トォォリカージ、15度!」
復唱された指示どおり、日本武尊は意思を持った生き物のようにゆっくりと艦首を傾けていった。
後の艦隊もまたその航跡に続く――
島陰に英国籍の小さな船を待避させ、狭い水路を旭日艦隊は単縦陣で一糸乱れず粛々と進んでいた。
速力16ノット針路西――日本武尊はオークニー諸島を抜けた。
「狭水道通過終了。……航海長、艦を返すぞ」
操艦号令を出していた富森が傍らの航海長を振り返った。
「いつもながらお見事な腕前です」
航海長が感嘆の声を上げる。
世辞ではなく、富森の操縦は巧みで日本武尊のような巨艦を意のままに操った。
若い当直将校が富森を尊敬のまなざしで見つめていた。
実際、駆逐艦のような小艦ならともかく、日本武尊のような超戦艦をらくらくと扱う技量はただものではない。
「狭水道通過終わり。用具収め、解散!」
艦内拡声器から号令が響く。
艦内のあちこちの待機所から、詰めていた兵員がわらわらと出てくる。
緊張感がほぐれる一瞬だ。
「艦長、ご苦労。相変わらずいい腕だ」
大石が上機嫌で声をかけてきた。
「さあ、あとは当直に任せてコーヒーでもどうだ?」
「ありがとうございます」
富森は目を細めて控えめな笑顔を見せた。
幕僚たちと艦長が去った艦橋には、一仕事を終えたほっとした空気が流れていた。
艦橋のガラス窓から真っ直ぐな列を作って駆逐艦群が先を進んで行くのが見える。
「全艦、狭水道通過」
「了解、針路このまま、ヨーソロー」
当直員たちの潮さびた声が艦橋に響く。
「なあ、あれが本物の艦長だ」
航海長が当直将校に話しかけた。
「うちの艦長は肝心なときは必ず自分で操艦する。けっして人任せにしないからすごいもんだよ……俺や当直に任せっぱなしにしても、問題はないんだがな」
航海長がにやりと笑う。
「それでも自分の艦の艦長の腕が確かというのは、嬉しいものですよ、部下としては」
若い当直将校は艦長の見事な操艦を目の当たりにして目を輝かして言った。
なんといっても操艦のうまい艦長は無条件で部下の尊敬を勝ち取ることができる。
「艦底の機関室の連中も艦長が操艦してるとわかると言ってるぞ。回転数の指示が的確で無駄がないからな」
「すごいもんですね」
「おまえも今のうちにしっかり操艦を勉強しておけ。ブイにいつまでたっても投錨出来ない艦長じゃ、艦の士気もガタ落ちってもんだ」
航海長は破顔一笑した。
「さ、もうしばらく当直を頑張ってくれ。艦橋は任したぞ」
「はっ」
当直将校は顔を引き締めて頷いた。
富森は艦の誰よりも海上勤務が長い。
兵学校卒業以来、陸に上がったのは普通科学生と水雷学校高等科学生の二年間のみという、潮気が骨の髄まで染み込んだあっぱれな海軍軍人である。
駆逐艦の水雷長からはじまり、駆逐艦長、駆逐隊司令、巡洋艦・戦艦艦長とその経歴は一貫して第一線の海上にあった。
艦長は艦の中ではオールマイティー、いわば一国一城の主である。
艦の乗組員は艦長の指揮のもとにその命を預ける。
無能な城主から人心が離れるように、無能な艦長ではたちまち艦の運動能率が落ちてその内情を暴露するものだ。
艦を扱うことにおいては誰にも引けをとらず、かつ人格者で公平な富森はどこの艦でも慕われ、その統率力は目を見張るものがあった。
城主として長年采配を振るってきた富森の風貌が、どことなく戦国武将を思わせるのも無理はないかもしれない。
旭日艦隊旗艦ということで司令長官や参謀長という将官が同居してはいても、日本武尊の艦長はあくまでも富森である。
司令部の人間はなんといっても「お客さん」「居候」であり、艦の運営には関わらない。
艦の乗組員が頼みとするのは、やはり操艦の名人にして沈着冷静な海の男、富森艦長なのだった。
富森はひとり露天甲板を歩いていた。
砲身を磨いていた水兵が艦長の出現に驚いて敬礼する。
富森はそのいかめしい顔を水兵に向けてきちんと答礼した。
艦長を一般水兵が間近で見る機会はあまりない。
水兵たちは彼らの艦長の答礼に興奮した。
物静かな潮焼けした風貌と、なにより目立つ細長い一風変わったひげ。
「おひとりで見回りかなあ?」
いぶかしげに水兵たちは囁きあった。
巨大な主砲塔の横を通り過ぎ、ベンチレーターを越えると艦首である。
富森は錨鎖の間を通り抜け艦首最前部に立った。
日本武尊の巨大な艦首は白波を蹴立てて青い海原を分け進む。
大海に出て、うねりがいちだんと大きくなってきたようだ。
ゆったりとした大波に乗った艦がぐぐっと沈み込む。
富森は微動だにしない。
たったひとりで艦首に立ち、前方をみつめる艦長の姿を水兵たちが不思議そうに見ていた。
「艦長」
背後から静かに大石が声をかけた。
穏やかな目を細めて富森がゆっくりと振り返る。
近づく足音で大石だとわかっていたのだろう。
「沖に出て波が大きくなってきましたなあ」
「低気圧の名残かな」
「午後には収まるでしょうが、小さい艦が難儀いたしますなあ」
「ふふ、懐かしいな。狭い艦橋が」
大石も若い頃に駆逐艦乗組の経験がある。
当直中にいきなり艦長に操艦を命ぜられて、四苦八苦したことも懐かしい思い出だ。
また大きな波が来て、艦首をぐーっと沈み込ませた。
富森が目を細めて水面に視線を戻す。
青く澄んだ波がゆったりと大きく寄せてくる。
「上から艦長がここにいるのが見えたものだから」
大石も波に目をやって言葉を継いだ。
「たしか今日はあなたの命日だったな……」
富森がゆっくりと頷いた。
前世のこの日、富森は南の海で真っ二つになった艦とともに海底に沈んだ。
「私の命日というよりも、私の指揮で命を落とした将兵たちへの追悼の日です」
富森は穏やかな声で答えた。
「私は前世のあの地獄絵図が忘れられないのですよ……」
目を波間にやったまま淡々と富森は語る。
「勝ち目のない希望のない戦場に私は五千余の将兵を連れて赴きました。そして何の意味もない戦いにあたらその命を捨てさせたのです……」
炎に包まれた艦、爆発した火薬庫、逆巻いて艦に流れ込む海水、重油にまみれた漂流物。
大石の脳裏にも戦艦大和の悲惨な沈没前の情景が甦った。
「富森……いや、I長官」
大石は富森の前世での名を口にした。
「私もあの最期の光景を忘れることができません」
「そうでしょう……」
富森は目を細め静かにつぶやく。
寄せ来る波の青さが目に染みる。
富森は遠い記憶の底にある海に思いを馳せた。
前世のあの海底には彼自身と幾千の将兵の屍が今も眠っているだろう。
無残に折れ裂けた艦には静かに海泥が降り積もっているだろう。
今こうして富森は後世に転生して、後世日本に貢献している。
しかし、前世で失ったものは後世であっても取り戻せない。
後世の動向に関わりなく、彼らの屍は前世の暗い海底で人知れず朽ちていくことだろう……。
後世は後世。
前世は前世。
己が罪は消えざりしものを。
富森は紺碧会の存在を知っても加わることなく、ただ地道に職務を全うしてきた。
前世とは違い、彼は後世ではひたすら現場主義を貫き栄達とは無縁だった。
海軍大学校にも進まず、海外派遣も辞退した。
前世では論客として鳴らした彼が、後世では無口な軍艦乗りに徹した。
贖罪ともとれる富森の後世での身の処し方だった。
「あなたの潔い生き方に憧れます……前世でも後世でも」
大石は熱く富森の目に語った。
「毅然として欲のない古武士のようなあなたに……」
いつしか大石も前世の生真面目な大石大佐に戻っていた。
「大石さん。私もまたあなたとご一緒できて嬉しい」
いつもの富森より太いやや訛りのある声が大石に応じた。
大石ははっとして富森を凝視した。
富森の面貌が一瞬変化したように見えた。
一瞬、ひげのない、角刈りの眼光鋭い将官のまぼろしが富森に被さって見えた。
悲運の名将、I長官のまぼろしが。
「I長官……!」
大石は懐かしさに絶句した。
「あなたも彼らの冥福を祈ってやってください。前世の海底に眠る彼らに……」
大石は首肯した。
「……於汝意云何、彼仏何故、号阿弥陀、舎利弗、彼仏光明無量、照十方国、無所障礙、是故号為阿弥陀、又舎利弗、彼仏寿命……」
富森の低い読経の声は潮風にさらわれちぎれ、青い波間に吸い込まれていった。