◆トレーニング〜続き
「磯貝さん、いいんですか?」
食堂の外の通路で航海長が声をかけた。
「え?」
きょとんと磯貝が航海長の顔を見た。
「柔道ですよ」
航海長は声をひそめたが顔は笑っている。
「木島さんは柔道四段でめっぽう強いうえに、素人相手でも容赦のない人だからね。下手すると怪我しますよ」
「は、はあ」
木島が柔道四段だと話には聞いていたが、そんなに荒っぽいとは。
磯貝は怖そうな顔になった。
「それにね、長官も荒っぽい。だいたい負けず嫌いだから自分が勝つまで止めないんですよ。勝っても自分がへたばるまで、まだまだ! なんて言って勘弁してくれない。参りますよ長官の相手は」
「航海長も道場へ行かれたんですか」
磯貝が驚いて聞き返した。
「行きましたよ、いの一番に木島さんに引っ張られて。……膏薬だらけ、痣だらけになりましたよ。俺も一応二段だけどね」
「……」
磯貝は声もなく震え上がった。
「長官の得意技が何か教えておきましょうか」
航海長はニヤニヤ笑っていた。
「寝技です。最初は腕力で思いっきり引っ張ってきますが、埒があかないとなると押し倒して寝技に持ち込もうとされます……あとは押さえ込みにくるか、絞め落としにくるか。」
いつの間にか磯貝は通路に立ち止まっていた。
後ろを歩いていた原までが足を止めて航海長の話を面白そうに聞いていた。
「ひどいんですよ、長官は。こっちがもう降参だと畳を叩いているのに、絞めるのをやめないんだ。絞め落とされて俺は気を失ったよ」
「うわ……」
磯貝が顔を引きつらせた。
明日は我が身である。
左舷に私室のある航海長は、じゃあおやすみ、と別れていった。
「寝技か……」
原が横からつぶやいた。
「ああ、参謀長。お願いです、明日一緒に道場に行ってくださいよ」
磯貝が原に泣きついた。
「俺がか。……断わる」
原は一言のもとに断わった。
「私ひとりじゃボコボコにされます。お願いです」
「断わらなかったおまえが悪い」
「そりゃそうですが、まさかそんな乱暴だなんて……」
磯貝は大きな目で縋るように原を見つめた。
「そんな顔されてもなぁ……」
原は苦笑いした。
「なあ磯貝。おまえ、そんなでかい図体をしていて本当に弱いのか?」
がっしりした肩、腰。
どこをみても武道が弱いとは思えない体格の磯貝である。
「はあ。押し相撲ならともかく……」
「そうか」
本人がそう言うのなら本当なのだろうと原は考え込む。
「あの長官が絞め落としにくるとは想像できないな」
「航海長が気絶させられたと言うんですから本当ですよ」
「うん。人は見かけによらんな」
そんなことを言いながら、原の頭に浮かんでいたのは
(長官に絞めつけられたらどんな気分になるだろう……)
ということだったりする。
(長官に抱きすくめられて、のしかかられて、寝技に持ち込まれる……長官の体の下で、押さえ込まれて、気絶するまで絞められる……)
ふたりは黙り込んでいた。
ふと原が磯貝を見ると、磯貝はなぜか顔を赤くして俯いていた。
(あ、こいつ。さては俺と同じことを考えてるな!)
原の勘はいつも鋭い。
磯貝の考えていたことは
(寝技で長官に抱きしめられたりしたら……俺、困るなあ。もしナニがその……どうしよう)
磯貝の心配は原よりかなり実際的であった。
次の晩の道場。
てぐすねひいた狼の前に柔道着を着た子羊が二匹やって来た。
どっしりと見た目は強そうな磯貝と、凛々しくも骨細で柔道着がダブつき気味の原。
「磯貝、おまえ本当は強いんだろ? さあこい!」
目を輝かせて、大石は磯貝に挑みかかる。
ぐっとお互いが柔道着を掴んで足を踏ん張る。
「うーむ、なかなか力があるな……」
大石の目が真剣になる。
磯貝も引き倒されまいと歯を食いしばる。
「ほお、磯貝さんもなかなかやるじゃないか」
木島がふたりの様子を見て嬉しげにつぶやいた。
「さて、参謀長。受身に自信はおありですか?」
柔道着がぜんぜん板につかない原を見て、木島が心配そうに訊いた。
「いや。もうほとんど忘れた」
むすっと原が答える。
「そうですか。じゃ今日は安全第一で寝技のはずし方を……」
大石は楽しかった。
磯貝は腕力はあるが、単純なのですぐ嵌め手に引っかかる。
引くとみせて内股、払うとみせて体落し……次から次へと面白いぐらい技がきまる。
あんまり投げられて頭にきたのだろう、半泣きの顔で起き上がり気合を込めて突進してくる磯貝をくるっと背中で受け止めて、大石は腰を捻った。
どすーん!
「きまった! 一本背負い!」
会心の大技に大石は白い歯を見せて笑った。
実に爽快な気分である。
「さあ立て! 磯貝!」
若くて体が頑丈な磯貝は投げ応えがあるし、なにより投げても投げても長持ちする。
(これはいい練習相手を見つけたぞ!)
大石は大満足だった。
「こら起きんか! どうした!」
仁王立ちして大石は磯貝を叱咤した。
一方原は。
木島にがっちりと押さえ込まれて、ばたばたともがいていた。
「それじゃだめです。もっと腹筋を使って!」
原の顔の上に木島の胸がきた。
(うぐっ。汗臭い)
原は泣きたくなった。
「だめだなあ。じゃあこうしましょう、見本を見せますから私を押さえ込んでください」
木島が原の上から下りると、今度は自分が横になった。
「さあ、参謀長、押さえ込んでください」
木島が寝たまま催促する。
(なんで俺が……)
非常に不本意ではあったが道場に来てしまったからには仕方がない。
原は木島の上にのしかかった。
「遠慮はいりませんから、しっかり押さえて!」
(遠慮じゃない。抱き合うのが気持ち悪いんだ)
「手を押さえるだけではすぐほどかれてしまいます。上体の体重をかけて!」
観念して原は言われるままに木島の体にぴったりと胸を合わせた。
「足が生きてますよ。ほら、足を絡めて押さえないと」
木島が遠慮なく原を蹴り上げた。
(くそぅ、こうなりゃヤケだ)
原は木島の腿を割ってしっかりと足を絡めて押さえ込んだ。
「そうそう。しっかり押さえて。いいですか、いきますよ」
木島が声をかける。
しばらくふたりはもみ合っていたが、木島はえい! と気合をいれるとあっという間に原の体をひっくり返し形勢を逆転させた。
「要するにテコの原理です。さあ、今度は参謀長の番ですよ」
木島はがっしりと原を押さえ込んだ。
ひと汗かいた木島の体からむっと男くさい熱気が立ち込めた。
真剣に逃げようとすればするほど、汗ばんだ肌が原の顔に押し付けられる。
(うぐあぁ! 何でこんな目に遭わなきゃいけないんだ! こんなはずではっ)
原は自分の迂闊さを呪った……。