◆浴衣〜続き


富森は艦船勤務が長いので、習慣として引き出しに浴衣を常備している。
夕食後は浴衣に着替えて、ゆったりとくつろぐのが艦船勤務の士官の常であったからだ。
だが富森が日本武尊で浴衣を着たのは戦争の初期、赤道付近を航行したときだけで、あとは引き出しに仕舞いっぱなしになっていた。
気温の低いスカパフローやイーサフィヨルズでは、浴衣一枚でうろうろしていると風邪を引きかねない。
巡検終了後、富森は私室のチェストから久しぶりに浴衣を取り出してみた。
富森の浴衣は新品ではない……艦船勤務の富森と一緒に、何隻もの軍艦の艦長室のチェストに収まってきた絣(かすり)の浴衣だ。
細かい白茶の格子縞を織り出した綿絣はさらさらとして肌に心地よく、この浴衣を富森は長年愛用してきた。
……浴衣を着て長官室へ来い、とは? 長官はまた何を思いつかれたのやら。
よくわからない大石からの伝言に首をひねりながら、それでも富森は久しぶりに浴衣に袖を通してみるのだった。


「ああのどが渇いたな」
「ええ、冷えたラムネでもぐっと飲みたいですね」
そんな事を言い合いながら、磯貝と原はさっぱりとした顔で日本武尊の艦内に戻ってきた。
まだ乾ききらない頭髪と風呂上りの桜色の肌に浴衣を着けて、ふたりはペタペタとサンダル履きのまま通路を歩く。
そんなふたりを長官専属の従兵が右舷通路の入り口で待ち構えていた。
「参謀長、航空参謀、長官がお呼びです」
「長官が?」
「そのままの格好でお越しくださいとの事です」
「もうバレてるのか、浴衣で温泉に行ったことが」
原と磯貝は顔を見合わせた。
「叱られますかね、やっぱり」
「とにかく行ってみよう」
ふたりは石鹸とタオルを従兵に預けると、そのまま長官室に向かったのだった。


「おお来たな」
入れ、と返事がして長官室のドアを開けると、大石が浴衣を着て微笑んでいた。
磯貝と原は初めて見る大石の浴衣姿に目を見開いた。
薄墨色の薄手の小千谷縮(おじやちぢみ)――大石は恰幅堂々たる体躯をこの渋好みな浴衣に包み、鹿の子絞りの兵児帯を腰にゆったりと巻きつけている。
ことのほか粋な、どきりとするほど色っぽい上司のくつろいだ姿に、磯貝と原はすっかり意表を衝かれて棒立ちになっていた。
こんな凝った浴衣を涼しい顔でさらりと着こなしているところをみると、大石は案外和服に関してはなかなかの洒落者なのかもしれない。
「おまえたちが浴衣で温泉に行ったと聞いて、俺も浴衣を引っ張り出してみた。日本からわざわざ送ってきてくれたのはいいが、この気候だ、今までなかなか着る機会がなくてな」
にこり、とちょっと笑ってえくぼを見せる、浴衣の長官の男惚れしそうな鮮やかさ――大石の魅力的なうちとけた様子に原と磯貝は妖しいたじろぎすら覚えてしまう……。
大石は両腕を組んでそんな原と磯貝の浴衣姿を仔細に眺めている。
「ふうむ……参謀長、浴衣姿も艶っぽいな。磯貝、うさぎとはまた可愛いではないか、はっはっは。まあくつろいでくれ……風呂上りにビール……ああ、おまえたちは下戸だったな。従兵、冷えたラムネを二本頼む」
大石は食器室の向こうの従兵にそう告げると、原と磯貝にソファーに掛けるよう手真似で示した。
「おまえたちが浴衣なら、ちょうどいい機会だと思ってな。ひとつ今宵は日本の夏を偲んで、浴衣着用で縁台将棋でもだな……どうだ雰囲気だけでも懐かしいだろ?」
「将棋……ですか?」
「なに、たまにはいいだろう。せっかくだから司令部の連中や艦長も呼んだ。おっつけみんな来るはずだ、もちろん全員浴衣でな」
にやり、とまた大石が笑って見せた。


ひとり、またひとりと浴衣姿の幕僚や幹部たちが長官室に集まってきた。
着古してくたびれてる浴衣、仕舞い込まれてたらしくシワになっている浴衣、みなまちまちである。
いつもは静かな長官室が、場違いな浴衣姿の男たちでたちまちにぎやかになった。
娯楽室から運ばれた将棋盤を囲んで、コップを手にした縁台将棋がそこここで始まりだす。
ソファーやじゅうたんの上に思い思いに陣取った幕僚たちの前に、従兵が次々とビールやつまみを運んできた。
いつしか宴はたけなわとなり、笑い声があちこちから湧きだした。


「磯貝さん、また棒銀かい?」
「は。これが得意でして」
ぱちり、と磯貝が歩を進めた。
「ヘタの棒銀上手が困るって言うけど……アンタもたいがいしつこいね」
磯貝の歩を銀で食って、早水がじゅうたんに駒を置いた。
「実は他の戦法を知りませんで」
ぱちり、とまた磯貝が銀先に歩を置いた。
「やれやれ……ほんと困るねえ……こうしつこいと」
口八丁手八丁の早指し将棋が得意な早水も、磯貝の手堅い定石戦法に調子が狂い気味だった。


「長官は手筋が悪いね。やたら奇襲や嵌め手(はめて)ばかりでどうもあくどい……」
「奇襲は対応策を知っていれば仕掛けた側が潰れるよ。あれは嵌め手にすんなり引っかかる参謀長が弱すぎるんだよ……」
将棋盤を挟んで対戦する大石と原のうしろで、観戦していた外野がこっそりふたりの将棋をくさしていた。
大石の古典的嵌め手に、将棋をあまり知らない原が引っかかり手もなくやっつけられている。
追い詰めた玉(ぎょく)を金一枚で軽く詰めてしまうと、大石は得意げに手持ちの駒を盤面にじゃらじゃらと放した。
「うっふっふ。次は俺が香(きょう)を引こうか?」
「いえけっこうです、もう一番!」
むっとした表情で原はそう答えると、片手で盤面を崩して駒をさっさと並べだした。
「うっふっふ……」
原のむきになった瞳を見て、大石は楽しげににんまりと笑った。
こんなにかわいい原の顔はそう見られるものではない。
片手でゆっくり駒を並べながら、大石は満足げにぬるくなったビールで喉を潤すのだった。



 *棒銀
飛車先に銀を繰り出し角頭を攻める戦法。原始棒銀は覚えやすいので初心者にお勧め。
 *香を引く
上手が右端の香一枚なしで指すハンデ戦のこと。香落ち。
故升田名人が少年の頃『名人に香を引いて勝つまで家に帰らない』とものさしの裏に書置きして家出した逸話は有名である。
 *艦内での浴衣
『第一艦隊法令』に
『……准士官以上は初夜巡検より翌朝起床まで公務に従事せざるときに限り和服もしくは洋風の寝衣を着用することを得』
という一項がある。
浴衣、丹前は夜の艦内でごく普通に見られた服装だったようであるが、パジャマを着用していた士官の例は残念ながらまだ知らない。