◆イーサの湯けむり〜続き


大石に異変を気取られぬよう必死に手足でカバーしながら、ではあるが。
ふたりで並んで湯に浸かりながら、こうしてしみじみと夜空を見上げるのもいいものだ……そう原が思ったのもつかの間。
「なあ、湯がぬるいと思わんか」
そんなことを大石が言い出したのである。
「え、とくにそうは……」
原がそう答えても
「いや、ぬるいぞ。これでは湯冷めしそうだ、よし俺が言ってこよう」
大石はそう言うとざばっと勢いよく風呂から上がった。
そして大股で脱衣所のほうに向かって歩いていく。
皆は呆然と大石の素っ裸の後姿を見ていた。


「おーい、風呂番はいるか!」
脱衣所で大石が大声で風呂番を呼んでいるのがここまで聞こえてくる。
「湯がぬるいんじゃないか? 元湯をもっと出してくれんか」
驚いた風呂番の返事が聞こえてしばらくすると、元湯を引いた配管から熱い湯が量を増してドドッと流れ込んできた。
「わわっ」
「アツッ」
湯の中にいた全員が配管から離れた場所にざーっと移動した。
いいかげん湯にのぼせているのに、これ以上熱くされてはかなわない。
日本湯の中はまさに我慢大会の様相を呈してきた。
茹でタコ状態になった磯貝、富森、前原、原に試練は続く。
「どうだ? いい湯加減になったか?」
大石が湯のほうに戻ってきた。
いい気なもので、湯に手を浸けて湯加減を見ている。
「んー、まだぬるいかな?」
「そんなことはありませんよっ、十分熱いです」
原が必死になって言った。
普段なら、こんな熱い湯には一分だって浸かっていられない。


いかに長風呂に慣れた富森といえども、こんなに熱い湯では長時間はきつい。
汗が冷たく感じるほど身体は火照ってのぼせきっている。
……もう限界を超えている。これ以上は危険だな。
年のことを考えると無理はいけない。
脳卒中でも起こしては大変だ。
……しかし前原さんをこのまま置いてはいけない。まだその、収まらないのだろうか? かわいそうに。
隣でのぼせて岩にぐったりもたれかかっている前原を心配そうに富森は見た。
この様子では、前原の目を気にすることなく湯を出られそうだが、困っている彼を見捨てることは富森には出来なかった。
……それにしてもいつまで磯貝さんと参謀長は湯に浸かっているつもりだろう? なんだかのぼせてしまっている様子なのに、おかしい……まさか彼らも?!
両腕をだらりと湯舟の外に投げ出して、目の焦点も怪しい原と、夏場の犬のような顔をして肩で息をしている磯貝。
どう見ても湯を楽しんでいるようには見えない。
……もしそうならふたりしてなんと破廉恥な! ……いやいや、穿鑿はすまい。とにかく前原さんを助けないと。
富森はふうっと苦しそうに大きな息をついた。
まったく熱くてやりきれない。
……私のほうが先に音をあげることになるかもしれんがなぁ。せめて長官がさっさと引き上げてくれれば、まだ手のうちようはあるのだが。
湯を熱くするだけ熱くして、自分は洗い場でのんびり石鹸の泡を立てている大石を富森は見据えた。
……ううむ、のぼせてもう頭が回らんわい。


さて、洗い場で冷え切った身体を大石は再び湯に沈める。
つーんと背骨に来る熱い湯がなんとも心地よい。
他の四人は熱い湯に朦朧として岩にもたれてへばっていた。
「なんだみんな、端に固まって? ほら、せっかく熱い湯を出してもらったんだ、奥へ行け」
気を遣っているとでも思ったのか、大石は湯舟の縁で熱気に喘ぐ皆を奥へと追い立てる。
「いえ、長官こそどうぞ奥へ。湯元の近くへどうぞ」
皆が口々に息も絶え絶えに遠慮した。
しかし大石はそんな様子にも気がつかない。
それならば、と奥の一番熱いところへ行くと満足そうに身を沈めた。
「あー、やっぱり湯は熱いのに限るなぁ、ははは」
脳天気な大石の言葉に同意する者は誰もなかった。
それどころか、大石に向けられた皆のトロンとした目には敵意がこもっていた。
……もうッ、煮られてしまえッ!
もし大石にテレパシーが通じたら、そんな声が聞こえたことだろう。
しかし大石はいっこうに平気で、気分よさそうにあまり上手くない詩吟を唸りだした。
「べんせい〜しゅくしゅくぅ〜よるぅかわをぉぉ〜〜〜」
皆はがっくりきた……頼むから、この一曲でおしまいにしてほしい……。


……うーん、困ったなあ。何でこんなときに……ああもう、いいかげん鎮まってくれよう……。
磯貝の顔は暑さと恥ずかしさに泣き出しそうだった。
……もう、変なことは考えてないのに、困ったなあ。暑くて熱くて何も考えられないのに……。
情けなさそうに磯貝は自分のへその下に、のぼせきってフラフラする視線を向けた。
……ぜんぜん鎮まらない……どうしよう目が回る、もう倒れそうだ……。
意識を失いかけている磯貝の耳に、音程のずれた大石の詩吟がひどく遠くに響いていた。
「いこぉん〜んんんじゅうねんんん〜〜〜」


……もう、だめだ、限界だ。
原の目は虚ろだった。
胸元まで外気に晒して、なんとかのぼせを押さえようとしてきたが、もう限界だった。
ドクドクと鼓動が耳元に響き、意識が遠のきそうになる。
しかし倒れるわけにはいかない、なんとしても。
……こんな醜態を晒すぐらいなら、死んだ方がましだ!
原はトロンとした目に必死で力を入れてようとして熱気に喘いだ。
こんなに彼が苦しんでいるのに、彼の身体の一部分は依然として「超元気」だった。
……馬鹿っ! 俺の馬鹿っ!
大石がなにやらまだ吟じているのが聞こえるが、もう何を言っているのかもわからない。
焦点の合わなくなった目つきのまま、原はゆっくりと意識が遠のいていくのを感じた……。