◆雪の朝

障子がいやに白く明るい。
冷たく重い部屋の空気と、森閑とした外の気配。
……雪かな?
大石は枕から静かに頭を起こした。
柔らかな障子越しの光を受けた畳、もう久しく使われていない鏡台……寝室は出撃前と何ひとつ変わっていない。
留守がちではあったがここでの暮らしには愛着がある。
懐かしい朝の雰囲気にしばし大石は満足げに浸りきる。
……ああ、静かで落ち着くな。やはり我が家はいいものだ。

徐々にはっきりとした覚醒が、目覚めたばかりの大石の全身に広がっていき、今日やるべき仕事を彼に思い出させた。
大石が「白鳳」で急遽日本に帰ってきたのが昨日の午後。
大高首相に会い、マーガレットとのことを打ち明けたのが、昨日の晩。
今日は木戸外相、高野総長を交えて女王との結婚問題を話し合わなければならない。
……大変な一日になる。しかし俺はへこたれんぞ。
大石は自分に気合を入れるように、勢いよく布団から出た。
その朝、東京は雪になっていた。

首相官邸に行く道すがらの帝都の雪景色は大石の目を楽しませた。
イーサフィヨルズの雪とはまた違う、都会の雪景色だ。
雪を張りつかせて車体を白くした路面電車がゆっくりと行き過ぎる。
停車場には傘を真っ白にした人が大勢並んで電車が来るのを待っている。
電信柱のてっぺんにも、張り巡らされた電線にも白い雪が積もっている。
……雪、か。
大石は久しぶりに見る東京の街を懐かしげに眺めた。
降りしきる雪の中を、大石を乗せた黒塗りの車はゆっくりと進んだ。

空襲を受けることもなく、明治大正の頃の面影を色濃く残した帝都東京は、どこか懐かしい美しい都市である。
開戦から足掛け九年、戦時経済の疲弊は街の表面にはまだ出ていないように思われる。
とはいえ、いつまでも戦争を続けられるものではない。
国家予算に占める軍事費の割合は年々増加している。
世界規模の不況に、昨年関西を襲った大震災による被害……日本の戦時財政は、まさに薄氷を踏むような状況だという。
国家財政が破綻する前に、この長い大戦に決着をつけなくてはならない。
……たぶん今年中に。
大石にもその心積もりはある。
ナチス海軍と決着をつける。
決定的な打撃をナチス海軍に与えて、すべての海域の制海権をこちらが握ってしまう。
あとは陸軍が始末をつけてくれる。
ヒトラーを完全に潰すことは出来なくとも、それで当分は欧州は静かになるはずだ。
……マーガレットがもう少し待ってくれれば。
あと一年半、いや一年。
世界の海からドイツ艦隊を駆逐し、ヒトラーが自国に逼塞し欧州が静まれば、大石の任務も完了する。
思い通りにならない秘密の恋と本土分割を余儀なくされた英国の窮状に、マーガレットが押しつぶされそうになっているのは大石にも痛いほどわかっていた。
……早く楽にして差し上げたい。王冠から自由にして差し上げたい。
なんとか波風は最小限に抑えて、女王退位そして結婚と話を進めていきたい。
戦争終結までに出来うる限りの下準備をして、徐々に外堀を埋めていくのだ。
今日の会談がその第一歩になる。
昨夜の大高の態度では、前向きに検討してくれそうな様子だった。
だが大高はそうだとしても、高野は顔を見るなり彼を罵倒するかもしれないし、木戸はねちねちと理責めでくるかもしれない。
それでも大石は引き下がるつもりはまったくなかった。
……何を言われようとも、絶対に説得してみせる!
車の後部座席で、大石は帝都の雪景色を眺めながら胸のうちの闘志を新たにするのだった。

ほどなく首相官邸のどっしりとした輪郭が雪の中に見えてきた。
正門の中の前庭の松にも雪が真綿のように降り積もり、今朝の官邸はいたって静かだ。
車を降りた大石は、やや小止みになった雪を後にして玄関ホールに向かった。
官邸内は赤とこげ茶の重苦しい色彩に統一されている。
ここかしこにアールデコ様式の装飾が施され、雰囲気はモダンではあるが少々陰気臭い。
正面階段の欄干には幾つもの見事な蘭や盆栽の鉢が飾られていたが、大石は目もくれずに急ぎ足で階段を上っていった。

階段を上がった南側の一角に首相執務室がある。
前室で待ち受けていた秘書に先導されて、大石は開かれた執務室の前に立った。
執務室は打って変わって、いたって実務的なスペースである。
絨毯の色もおとなしいベージュで天井もそれほど高くなく、さほど広くもない部屋にソファーや打ち合わせ用の机がたくさん詰め込まれて置かれている。
温顔の大高が執務机からゆっくりと立ち上がると、手を上げて机の前の木の椅子を大石に勧めた。
「おはようございます。さあどうぞお掛け下さい」
大石は固い表情で一礼すると、椅子の背を引き腰を下ろした。
「さて大石さん……」
大高はほほえみかけたまま、大石の緊張した顔にまじまじと目をやっている。
大英帝国の女王を射止めた世紀の色男の顔なのだ。
「お早かったですな。高野さんと木戸外相はまだなのですよ」
「は、どうも気が逸りまして」
大石が普段に似合わずぎくしゃくと頭を下げたので、大高はこっそり笑いをかみ殺した。