◆雪の朝〜続き

首相執務室には高野総長と木戸外相が顔を揃えていた。
だいたいの話は昨夜遅くの電話で聞いてはいたが、二人はまだ信じられないという顔をしている。
「大石さんには別室にてお待ちいただいております」
にこにこと大高は二人の驚いた表情を見比べながら言った。
つい昨夜、大石の告白に自分が仰天したことはおくびにも出さない大高だった。
「……信じられん。大英帝国の女王と恋仲だと?! あいつは正気でしょうな? 総理」
高野はずけずけと思ったことを口にした。
「ははは。それはひどい」
にっこりと大高がほほえんだ。
「マーガレット女王が退位を望んでまで大石さんと一緒になりたがっているというのですか。なんとも驚きました……」
木戸は浮かぬ顔つきでボソボソとつぶやいた。
降ってわいた厄介事、とまでは言う気はないが、外相としてはとんだサプライズだ。
「とりあえず英女王の資料を揃えてまいりました。これをどうぞ」
木戸は抱えてきた写真や新聞記事を二人の前に押しやった。
資料の一番上には即位した当時のマーガレットの写真が幾枚か載せられていた。
「……おきれいな方ですな」
写真を手にとった大高が感に堪えないように呟く。
「1940年、バトル・オブ・ブリテンのさなかに十八歳でご即位……若く美しい女王として国民に大変人気のある方です」
木戸が横から補足説明をする。
むすっとした表情で、ぱらぱらと他の資料をめくっていた高野が一枚の写真記事を指差した。
「ビクトリア・クロス……例の勲章の記事だ。大石と並んで写っている」
紙面の中央でモノクロの大石と女王が手を取り合ってにこやかに微笑んでいた。
「……こうして見るとなかなかお似合いの二人ではありませんか」
高野の手許の写真記事をのぞきこんで、大高がのんきな感想を漏らす。
「……相手がただの英国美人なら貴族でも映画スターでも構いはしません。しかし女王とは……いったいぜんたいどうしてそんなことになるんだ!」
バサッと古新聞を机に置くと、高野が憤然としてぼやいた。
「ははは、後でご本人にとっくりとお聞きなさい。いや私も興味があるところですが」
大高がコホンと空咳きをした。
「大石さんが女王のお気に入りなのは現地筋から聞き及んでおりましたが、いやはや」
木戸はさっきから首ばかり振っている。
両人とも善後策を協議するにはまだ興奮が冷めない様子である。

「さて、こういうことは本人の前では言いにくいものなので、先に意見を伺っておこうと思いまして。高野さん、あなたのお考えは?」
大高はまず高野に意見を求めた。
「あの男はこの大変なときに何を寝ぼけたことを……というのが私の本心ですが、このことが公になれば、日英関係にどう影響するかがまず気がかりですな。木戸さん、どうでしょうか、そのあたり?」
渋い表情の高野に水を向けられて、木戸はあごひげに無意識に手をやった。
「英国世論は援英艦隊の活躍により、かつてないほど親日傾向が高まっておりますが、王室の結婚となりますと……」
顔をやや曇らせて木戸は言いよどむ。
彼らの東洋人への偏見はどうあっても根強いのだ。
「対日世論は一気に悪化すると予測されるのですね」
「いえ、そうとも言い切れないのです。女王への批判は噴出するでしょうが、日本との外交問題にまでは発展しないかもしれません。日本大使館が焼き討ちにあうとか、日英同盟破棄を要求とか、そういう最悪の展開となる可能性は低いかと。もちろん英国民は相当なショックを受けるでしょうから予断は許せませんが……」
「うーん、微妙ですな」
「ええ。なにせかつてない事態ですから」
三人は顔を見合わせた。
まったく予想もしない事態だった。
自然災害、事故暗殺、世界恐慌……前世の情報を持ち、考え得るありとあらゆる要因にも備えていた彼ら三人も、これだけは思い及ばなかった……援英艦隊の司令長官と英国女王が恋に落ちるなどとは。
濃い眉の下から、落ち窪んだ目を熱っぽく光らせて、木戸外相が言葉を継いだ。
「……ひとつだけ、参考になる事例があります。ご記憶でしょう、シンプソン事件です」
「おお、エドワード八世の王冠を賭けた恋、ですな」
大高が応じる。
「はい。夫のあるアメリカ女性との、いわば不倫です。あとで正式離婚をしていますが、シンプソン夫人はそれまでにも離婚歴があった……英国国教会も国民も、到底王妃として認めたがらない女性をエドワード八世は伴侶として望まれたのですね」
「シンプソン夫人を諦めるか、王冠を捨てるか。そこでエドワード八世は王冠を捨てられた」
低い声で高野が唸るように呟く。
「はい、即位して一年足らずで退位なされ、ウィンザー公の称号を贈られたかわりに、子孫に至るまで英国王位の継承権を永久に失われました。当時議会は紛糾し、ボールドウィン首相がシンプソン夫人を諦めるよう強く説得に当たったそうです。しかし、マーガレット女王の場合、最初から退位を望まれているわけですから……」
木戸の目がチカリと光る。
「外相としては、現在大変良好な日英関係をできればこのままそっとしておいて頂きたい……。ですが、おふたりの結婚が両国の友好関係を揺るがすかというと……私はそこまでは思えないのです。楽観的過ぎるのかもしれませんが、外交に関しては英国は老獪であります。日本との付き合いが有用である限り、彼らは同盟を続けるでしょう。援英艦隊一つを例にとっても、日英同盟は彼らにとってはいいこと尽くめなのですから」
「つまり、退位されたマーガレット陛下個人が誰と結婚されようが、英国は国家としては関知しないだろうと?」
「はい」
「ふむ……」
「センセーショナルではあるが、日英両国の関係において致命的にはなり得ない。ならば反対する理由もない、となりますな」
三人は顔を見合わせ、頷きあった。

「……しかしとんでもないことをするやつだ」
高野が白髪混じりの頭に手をやって、ほっとしたように吐息をついた。
立場上、高野は大石の“不始末”にいい顔をすることは出来ない。
彼自身、こんな厄介な恋愛問題を起こした大石に腹を立ててもいたが、昨夜この話を聞いてからというもの、人情家の高野は彼なりにいろいろと気を揉んでいたのである。
「では、大石さんをお呼びしてよろしいですね」
そんな高野の顔を覗き込むようにして、大高が念を押した。
「ええ。どんな顔をしているか、とっくりと見てやります」
そう言って高野ははじめて苦く笑ってみせた。

かつてないほど、大石は恐縮して低姿勢だった。
底冷えする寒い雪の朝だというのに、額にうっすら汗さえ浮かべている。
それを見て高野は幾分か溜飲を下げた。
ふん! この色男めが!
「女王が大石さんとの結婚を望んで退位するのであれば、最悪おふたりが英国民から白眼視されることになっても、騒ぎが外交問題にまで達することはないだろう、と我々は予測いたします」
にっこりと微笑みかけて、大高が言葉を続ける。
「安心なさい、大石さん。政府としても、おふたりの結婚に協力を惜しみませんぞ」
「タイミングとしては、ロンドンを解放した戦勝祝賀ムードのなかで、退位と婚約の発表というのが、一番抵抗が少ないでしょうか」
考え込んだ様子で木戸も大石に話しかける。
幾多の外交の修羅場を切り抜けてきた実際家の木戸らしく、早くも英国との駆け引きに思いが飛んでいるらしい。
「なんといってもマーガレット女王は空襲下の英国で抗戦の精神的支柱となってこられた方。若い女性の身でご立派なことです……メディアを上手く利用すれば、英国民から同情と理解を引き出すことも十分可能だと思いますよ。……総理、英国国内の分析にはもう少しお時間を頂いていいでしょうか」
「おお、もちろんです。いろんな面からのシミュレーションをお願いいたします。いずれ英国側とも打ち合わせが必要になってくるでしょうが、そのときはまた会合を持ちましょう」
「……ご面倒をおかけします」
今朝の大石はひたすら頭を下げるばかりである。

話がひと段落して、座に沈黙が訪れた。
大石はようやく椅子に腰を下ろしてほっと一息いれる。
大高はにこにこと温顔のまま、木戸はあごひげに手をやったまま考え込み、高野はいつものポーカーフェイスでむっつりしている。
とりあえず、非難轟々の場とならなかったので、大石としては非常にありがたかった。
積雪のせいか窓の外が妙にほの白い。
朝一番にはまだ冷えていた執務室の空気も、だんだん暖房が効いてきてほどよく暖まってきた。
緊張が解けてくると、机の上に無造作に置かれたままの女王の写真についつい目が吸い寄せられてしまう。
戴冠式のマーガレット女王……重たげな王冠を戴き、毅然とした、しかしどこか悲しげな表情で前を見据えている十九歳の彼女は神々しいほど美しい。
病院の傷ついた兵士達を見舞う女王のいたわりに満ちたまなざし。
議会で演説草稿を読み上げる真剣なまなざし。
誰も知らないのだ、ふたりきりになれば彼女がどんなに甘やかに微笑むか、涙を溜めて見上げる瞳がどんなに蠱惑的か……。
高野が自分に目を向けていることに気づいて、大石は緩みかけた顔を大急ぎで引き締めるとソファーに座りなおした。

「戦争終結まではあと一年かもう少しかかるか……。わが日本の国力からいっても、できる限り早期終結をだな」
「より良き負け、ですな」
高野の言葉を引き取って、木戸が頷いた。
「ええ、今はその落としどころがようやく見えかけてきた、大事なところです」
そう言うと高野はいったん言葉を切って、じろりと大石を睨んだ。
「大石、言うまでもないことだが、英国を守りきれなくてはどうしようもない話だぞ」
「は、承知しております」
「それに発表は戦後にするとしてもだ、ほんとうにまだ誰も貴様たちの仲に気が付いていないのか?」
「は、たぶん」
「ふうーん」
半眼になった高野はじっとりと冷たい視線を大石に向けている。
ひょっとすると、先に大高に打ち明けたことで上司として気分を害しているのかもしれない。
あとでゆっくり油を絞り、かつ、交際の仔細を聞きほじるつもりなのが見て取れて、大石は内心げんなりした。
それでなくとも高野五十六という男は人情家だけに、こういう事柄にはいささか下世話な関心を持っているのだ。
「ほんとうに気づかれていないんだろうな? 発表前にスキャンダルになったりしたら面倒になるから、今後とも自重しろよ」
「は、それはもう」
「まあまあ、そのぐらいに……。それでは女王陛下の件については、外務省で調査を進めてもらうといたしまして――」
肉の厚い手のひらを上げて、大高が如才なく両人の間に入って話題を変える。
「では大石さん、ブレスト条約後の状況をご説明いただけませんか?」
「承知いたしました――」
大石はほっとしたように肩の力を抜くと、「英仏海峡のドイツ内海化」現象について、てきぱきと話し出した。