◆朝の空気
窓から差し込む白い日差し。
小鳥のさえずり。
なんていいものだろう、地上の朝は。
艦内放送が始まる前の『ジーー』という音でもなく、頭上の甲板をドカドカ走る水兵の靴音でもなく、可愛い小鳥の声で目が覚めるのだ。
原は気持ち良さそうにひとつ伸びをすると、ベッドを下りて窓を開けた。
全身に眩しい陽光を浴びながら、ひんやりとした外の空気を胸いっぱい吸い込む――ペンキや重油の臭いではなく、緑と土の匂いのするトリスタン・ダ・クーナ島の朝の空気を。
出撃してから今日まで、こんなに寛いだ気持ちになったことはなかった。
緊張につぐ緊張――Uボート対策はもちろん、大艦隊の長距離航海ゆえの彼の気苦労は並大抵ではなかった。
司令長官の大石は、航路の決定には航海参謀を交えて何度も協議するほど慎重だったが、こまごまとした補給や整備計画は
「原くん、よろしく頼むよ」
と最初から参謀長である原に丸投げして寄こしてきた。
日本の外務省や現地大使館とまめに連絡を取り、司令部員を叱咤激励しながら追い使って、原が今日まで旭日艦隊の艦隊行動のすべてを取りまとめてきたのである。
艦隊参謀長という初の大役への意気込みもあって、原はそれこそ不眠不休の勢いで猛烈に働いた。
大変な仕事だったが、やりがいもあった。
原に仕事を丸投げする大石は、取りようによっては度量の大きい上司とも言えよう。
大石の全幅の信頼と委任を受けて、原は自由に存分に手腕を振るうことが出来た――山のような書類に埋もれながらではあったが。
――チチッ! キィーキュイー!
鋭い声を残して灰色の鳥が不意に茂みから飛び立った。
原はまぶしそうに目を細めながら、鳥の行方を目で追った。
原たちが宿舎にしている建物の裏手には、のどかな農地が山裾まで広がっている。
果樹らしい木立の向こうは緩やかな傾斜をみせる緑の放牧地が続いており、その緑が終わるあたりから急に岩山の斜面が立ち上がっていた。
朝日を浴びて紫色に輝きそびえる岩山の荒々しい山肌には、植生の若草色の帯が張り付くようにして頂上まで続いていた。
大気が澄んでいるせいか、真っ青な空に山の稜線のギザギザがひどくくっきりと浮きあがって見える。
海岸と反対側のこの部屋の窓からみると、ここが小さな絶海の孤島だということを忘れてしまいそうな壮大な景色だった。
小鳥の姿が視界から消えると、原は思い立ったようにすばやく身支度を整え出した。
朝日を浴びた山の輝きが、風にそよぐ木々のざわめきが、長らく休暇を忘れていた身にはたまらなく慕わしい……。
原は一刻も早く、戸外の自然の中にその身を置きたくなったのだ。
数分後、身支度を済ませた原は宿舎の外に下り立っていた。
彼はゆっくりと歩きながら、深呼吸を繰り返した。
緑の匂い、土の匂いを胸いっぱいに深く吸い込む。
でこぼこの農道を一歩一歩踏みしめる。
鳥の声、草の葉擦れの音、蜂の羽音に耳を澄ませる。
海の上とは違い、大地の上にいるとなにか絶対的な安心感がある。
……やっぱりヒトは陸上動物だな。
そんなことをしみじみ思いながら、原は野山へと歩きだした。
出航から三ヶ月、大石を補佐して目の回るような毎日が続いた。
最初はなんでも丸投げする大雑把な長官だと思った。
次に何を考えているのかわからない不可解な長官だと思った。
面倒なことはやりたがらないのかと思えば、独りでこつこつと作戦を組み立てていたりする。
南米訪問前のことだった。
「参謀長、ちょっとこれを読んでおいてくれないか」
大石が参謀長室に突然顔を出して、ばさっと無造作に書類の束を机の上に投げ出だした。
何かと思って手に取れば、八分通り仕上がった作戦立案書である。
「いつのまに……! このような作戦は私は聞いておりませんがっ!」
寝耳に水の原が思わず詰め寄ると
「はは、いやちょっと思いついてな、俺が自分で書いたんだよ」
涼しい顔の大石は一向に悪びれる様子もない。
「それでな、手始めとしてモンテビデオでわざと情報を流そうと思う」
「え? ええ?! ちょっと待って下さい!」
原は動転しながらも、書類のページを素早く捲って作戦内容の把握に努める。
……ええと、偽情報を流布し敵潜水艦を誘い出す、これのことか。
小奇麗に並んだ大石の手書きの文字を、原はハイスピードで眼で追い、読み進めていく。
その原の眉間に、ぐっと縦じわが寄った。
……笑気ガスを敵潜水艦のシュノーケルに注入して、拿捕?
「……そんな奇抜な……笑気ガスをゴムホースで注入とは……本気ですか?!」
「ああ、本気だよ」
無礼ともとれる原の言葉に動じることなく、大石は鷹揚に頷いてみせた。
そんな大石の平然とした表情をちらりとだけ目に納めて、原は書類に視線を戻す。
作戦書にはまだまだ彼の度肝を抜く内容が書き連ねてあった。
……拿捕した潜水艦を使って欺瞞情報を流す? 記者団を引き連れて観戦させる?
あまりにも戦術の常道を外れた作戦に、原は言葉もなく大石の目をまじまじと見つめるしかなかった。
……勝算があるんですか? リスクについてはどうお考えです? なんでこんなことをわざわざ?
参謀長の疑念に満ちた表情をどう思ったのか、大石は気軽く彼の肩をポンと叩くと破顔一笑してみせた。
「ハハハッ、まあ俺を信じろ。心配はいらん。で、あと細部を詰めておいてくれんかな? 期限はそうだな、明日、いや明後日までに頼む」
詳しい説明をするでもなく、原の意見を聴くでもなく、大石は言いたいことだけ言うと来た時と同じく風のように去っていった。
……明後日ですって?! こんな奇天烈な作戦をいきなり突きつけておいて……。
大石のがっしりした背中がドアの向こうに消えても、原は書類を手に茫然とその場に立ち尽くした。
――今では原も、大石長官は型破りだが、通常の戦略概念を超えた大局観を持つ人物だと得心している。
シャルンホルスト、ビスマルク二世を打ち破ったあの鮮やかな手並み……!
そして観衆を前にしての、あの最高の劇的効果!
あのときの感動は今も忘れられない。
戦いの後、日の出の朱に染まる艦橋で莞爾と微笑む大石の横顔を、原も乗組員とともに鳥肌の立つほどの感動をもって仰ぎ見たものだ。
あの戦いを期に、原は大石に完全に心服したのである。
朝日を受けて、原の影が長く農道の脇に伸びていた。
さわさわと緑の草が風に揺れ、眩しい光と影の縞模様を作り出している。
原は来た方角を振り返った。
疎らな林の中に宿舎の屋根が見える。
こじんまりとしているが新築間もない旭日艦隊ト島駐留司令部だ。
司令部の真下の断崖には、消波フェンスに囲まれた真新しい港があり、そこに日本武尊が係留されている。
南米への親善航海、そしてその後の海戦を終えて、日本武尊と直衛艦隊は設営隊が用意したその新港で、今久々の休養を取っている。
原も大石に強く勧められて上陸し、駐留司令部の宿舎にしばらく滞在することにしたのだ。
「さて、しばらくは次の幕までのいわば幕間だ。筋書きはできている……だが、役者が揃わなくては芝居はできんからな」
昨夜、ト島司令部のソファーでくつろぎながら、大石はそう言って原に片目をつぶって見せた。
次の芝居とは何を指しているか原も十分心得ていた。
陽動作戦で敵を欺きつつ、ドイツの心臓部に痛烈な一撃を与える――出撃前から練られていた「心臓作戦」だ。
この作戦には、日本武尊の影武者となる木造戦艦《八咫烏》が不可欠だった。
その《八咫烏》到着までにはまだ日数がある。
「それまで原くんもしばらくのんびり骨休めをしたまえ」
そう大石は言ってくれたが、実際は無理というものだ。
まず第一にト島に着いた旭日艦隊をこのまま泊地で遊ばせておくわけにはいかない。
なにしろ竣工したばかりの新造艦が多く、性能は抜群でも習熟度はいまひとつの旭日艦隊なのだ。
この機会を逃さず、ト島近海で艦隊行動演習を念入りに繰り返して、艦隊としての錬度を上げなくてはならない。
おまけに英国からケープタウン商船の護衛依頼がきている。
旭日艦隊が英国からト島を借りている以上、面倒でも艦隊の一部を割いてこれを護衛してやるのが同盟国の務めというものだ。
少なくとも英国はそれが当然だと考えている。
なにぶん大ブリテンは利害計算にはとことんシビアなお国柄なのだ。
ともかく、演習計画の立案も商船護衛も、それらの補給業務もすべて旭日艦隊司令部の仕事になる。
のんびりどころか、南ア大使館との交渉や護衛に出す直衛艦隊司令部との連絡など、仕事は山積になって原を待ち構えている。
……この状況でいったいどうやったら骨休めができるんです?!
よほど具体的に大石に聞き質してみたいところだったが、原は大石の言葉をそのまま受け取っておいた。
できるかどうかは別としても、大石のいたわりの気持ちはやはり嬉しかったからである。