◆幕僚選び
帝都に春一番が吹いている。
麹町区霞ヶ関の官庁街を忙しそうに行きかう人々は、みな強い風に押されるように背を屈めて歩いていた。
背後に見える日比谷公園の緑も、今日は強い風が巻き上げる砂塵にぼんやりと煙ってみえる。
この日、海軍省にふらりと立ち寄った男はひどく明るい目をしていた。
黒々とした髪はきれいに撫でつけられており、血色もよく疲れた様子はどこにもない。
ここ数ヶ月の目の回るような忙しさにも、この男のバイタリティはまったく失なわれてはいないようだ。
――新戦艦の完成がいよいよ近づいている。
超戦艦「日本武尊」の竣工が……。
海軍省庁舎は明治政府が好んで建てた赤いレンガのネオバロック様式の建物である。
玄関は左右対称の建物の中央にあり、男は守衛に身分証明証を提示してすんなりと中に入った。
庁舎の左翼部分の一階は軍務局で、軍令部は二階にある。
男は慣れた様子で、豪華な装飾を施された階段を長い足で一段飛ばしに上っていった……。
軍令部の廊下にはタバコの紫煙がどこからともなく流れてきていた。
廊下に並ぶそれぞれのドアの向こうでは、海軍選りすぐりのエリートたちが参謀飾緒を吊って機密書類と取り組んでいるはずだ。
紫煙はハードワークに勤しむ彼らの机上の灰皿から立ち上るものなのだろう。
廊下に敷き詰められた赤いじゅうたんが、勢いよく歩く男の靴の下で柔らかく沈んでいた。
軍令部を訪れたこの男の目的は、作戦部でも情報部でもないらしい。
男は軍令部各部へのドアを素通りして、まっすぐ奥の副官部に向かっていた。
いきなりドアを開けた男の顔を見て、机で執務していた副官が慌てて立ち上がった。
「通るぞ」
男は副官に気軽くそう一声かけただけで、無造作に副官事務室を横切って奥の総長室へと向かう。
ちょうど総長室に通じるドアは開け放たれていて、衝立の向こうで何かの書面を読んでいる高野の姿が見通せた。
「ああ、大石」
男に気づいて顔を上げた高野が温かな笑顔で彼を迎えた。
大石――現在は軍令部出仕として表向きには特定のポストにつかないまま、日本武尊建造の指揮を取っている大石蔵良海軍中将である。
「夜行を乗り継いで来たのか、疲れただろう、まあ座ってくれ」
高野はソファーを指して大石に勧める。
「なに、車内で仮眠できましたから。もう慣れたもんですよ、呉からの道中も」
勧められるままにソファーに腰を下ろすと、大石は高野を見上げながらそう笑って答えた。
呉から東京まで、汽車に20時間近く揺られて今さっき着いたばかりだというのに、たしかに彼には長旅の疲れが見えなかった。
そんな大石の元気そうな様子に、高野は嬉しそうに目を細めて短い笑い声を上げた。
普段はむっつりした高野だが、心を許した友人や部下にはこんな朗らかな表情も見せる。
「東京は朝からひどい風だ。呉のほうはどうだった?」
「あっちは雨が降りかけていました。東京も明日あたり雨になるかもしれませんな」
「そのようだな、俺の古傷が疼き出してるよ」
40年前の傷を軍服の上からそっと押さえると、高野は大真面目にうなづいてみせた。
「で、その後どうだ、日本武尊のほうは」
自分も大石の向かいに腰を下ろすと、高野はまず艤装の進行具合を尋ねた。
大石は進水式が済んでからも、ほとんど呉に詰めっぱなしだった。
大石が自身で構想した日本武尊はこれまでにない超戦艦であり、工法も従来のままではどうにもならず、常に新工夫が必要になった。
たとえば砲塔は従来なら進水前に積み込むのだが、甲鉄が並外れて分厚い日本武尊は先に主機を船体に納める必要があったため、砲塔の積み込みは後回しにしなければならなかった。
砲塔まで一気に積んでしまうと、あまりの重量に船体がドックの底まで沈みきって進水できなくなるからだ。
なにせ砲塔だけで、重巡洋艦一隻分の重量になるという――日本武尊はそれほど巨大だった。
ほかにも早期艤装、ブロック建造、木製模型の採用などの革新的な工法も、前世の戦艦大和建造時のメタ情報と、型に囚われぬ大石の自由な発想に多くを因っていた。
大石は呉工廠の造船官の報告や相談を受けながら、日に日に彼の夢が形となっていく過程に立ち会っていたのである。
「――艦橋上部には電気溶接の使用が可能なので、あらかじめ工場で組み立てておいた各階の構造物を、クレーンで順に積み上げていきます……これなら船体上で一から作り上げる従来の工法の1/10の工期で完成できる、というわけでして」
簡潔な要点のみの報告ながら、大石の言葉には自然と熱がこもっていた。
「――あと、懸案の砲塔の搭載も完了しましたので、砲塔周囲の防御装甲の取り付けに掛かっております」
「例の張力コンクリート併用装甲だな」
「ええ、史上最強の装甲と申し上げておきましょう」
大石は自信たっぷりに微笑んでみせた。
500ミリにも及ぶ分厚い装甲と喫水変更可能なバラストタンクは、日本武尊自慢の防御装備である。
「うむ……主砲の積み込みが完了したとなると、そろそろ司令部の人選も進めんといかんな」
勘のいい高野は、大石が今回何のために上京したのか早くも察していた。
幕僚選び――司令部の人選について、大石自身の意見を人事局に通したいのだろう。
司令部人事については高野自身も前世での苦い経験がある。
なんといっても軍備と人事は両輪であるべきで、人の和が得られなければ戦いそのものが危うくなる……。
本来、海軍人事は本省に権限があるが、高野は大石にできるだけ便宜を図ってやるつもりでいた。
「まずは参謀長だが、貴様に具体的な希望があるなら聞いておこうか」
高野はさりげなくそう言い置いて、ゆっくりと茶托の上の茶碗に手を伸ばした。
「ありがとうございます……」
……俺がまだ何も切り出してないのに。総長はお見通しだな。
そ知らぬ顔で茶を啜っている高野に、大石は内心舌を巻いた。
高野の推察どおり、大石の今回の東京行きの眼目は幕僚選びの相談にあった。
大石は人選を人事局任せにしたくなかった。
少なくとも片腕となる参謀長だけは、自分で指名しておきたかったのだ。
「そうですね……」
茶を味わう高野を見守りながら、大石は慎重に言葉を選んでいた。
「参謀長には用心深くて信用できる性根の据わった男がほしいですね……。軽薄な才子はいりません」
大石の言葉に高野は意味ありげな顔でうなづいてみせた。
「なるほど、策士は貴様ひとりでたくさん、か」
フフフと高野は薄く笑うと、カタリと小さな音を立てて茶碗を茶托に戻した。
「用心深くて性根の据わった男……だな」
ごま塩になった短髪の下で、高野の俊敏な目がすっと細められた。
「俺に心当たりがなくもないんだが、貰い受けるのはちょっと難しいかもしれん。まあそれはそれとして一度会ってみるか?」
「ええ、総長のご推薦ならぜひ。で、いったい誰なんです?」
大石が興味深げに身を乗り出す。
「ふふ、それはな……。そうだちょうど今夜、省部の懇親会がある。その男も来るはずだから貴様も顔を出せばいい」
――その夜、新橋のとある料亭の門前には、黒塗りの車が次々と止まって背広姿の男たちを降ろしていた。
門内の店の灯が、打ち水された敷石をしっとりと鈍く光らせている。
小腰を屈めた下足番が揉み手で客を先導し、粋を凝らした玄関では女将が満面の笑みで丁重に海軍の要人たちを出迎えていた。
大広間には膳部が用意され、海軍大臣の短い挨拶が済むと芸妓たちが花波のように現れて、座は一気に華やかになった。
懇親会はなごやかに進み、酒の匂いと管弦の音、芸妓たちの甲高い笑い声が広間を満たしていた――
まさに宴たけなわのそのとき、海相と並んでニコニコと話を聞いていた高野が目立たぬようにスッと席を外し、大石の横に身を屈めて囁いた。
「あれだ、梅若が酌をしている口ひげの……軍務局一課の原大佐だ」
顎をちょっとしゃくって示してそれだけ言うと、高野は大石をおいて立ち去った。