◆ ブルーレディに紅いバラ
長官室には挽いたばかりのコーヒー豆の香ばしい香りが漂っていた。
粗めに挽かれたコーヒー粉は、大石の慣れた手で丁寧にロートに移し替えられ出番を待っている。
「マッキントッシュ参謀長から許可をもらったよ」
「は……?」
向い側のソファーの原が怪訝そうに顔を上げた。
「プールだ、例の」
……プール?
原は一瞬戸惑ってかすかに眉をひそめた。
だがすぐに彼の脳裏に半月ほど前のやり取りが電光のように閃いた――イーサ泊地自慢の露天風呂、旭日湯でののんきな会話が。
『ケブラビークの米軍基地は温水プールを作ったらしいな。ま、なんというさすがにアメリカだ』
『うちでは無理ですよ、プールなんて』
『わかってるよ。羨ましいのはやまやまだが』
『今度、合同会議の後で泳がせてもらったらいかがです?』
『そうだなぁ……もう長いこと泳いでないからなぁ』
米軍の温水プールを羨ましがる大石を、それなら泳がせてもらえば?と、冗談半分けしかけたのはたしかに原だった。
だが本当に米軍司令部に話をつけるとは……原は呆れたようにサイフォンを前にした長官の顔をまじまじと見つめた。
「あの、本当に泳ぐおつもりですか?」
「プールで泳ぐ以外、何をするんだね」
大石は瞳をまっすぐ上げて、無邪気に原に問い返した。
「旭日艦隊の幕僚みなさんでどうぞ、ということだ。遠慮なく泳がせてもらおう」
アルコールランプの青い炎で温められて、フラスコの湯がコポコポと微かな音をたてはじめた。
大石はいったん会話を打ち切り、神経をサイフォンに集中させる。
細心の注意を払いつつ、大石は手慣れた手つきでコーヒー粉をかきまわした。
くるくると舞うコーヒーの粉は、浮くものは浮き、沈むものは順に沈んで、見る間に比重ごとに層をなしていく。
妖しく揺らめくアルコールランプの炎を消して、蒸れこもる豊かな香りに包まれて待つことしばし――やがてフラスコに黒い液体が満ちた。
大石は満足そうな笑みを浮かべて、出来上がった自慢のコーヒーをカップに注ぎ分けるのだった。
「潜輸が運んできたジャワコーヒーだ……やっぱり豆が少し湿気ていてな……ま、連中の苦労を思うと文句は言えん」
カップを口許に運び、ジャワコーヒーの焦げたような独特の香りを味わいながら、めずらしく大石が愚痴をこぼした。
「……コーヒー豆の産地や流通ルートを、ヒトラーに抑えられているのがなんとも腹立たしい」
ひと口コーヒーをすすり、大石は少し固い表情になってカップをソーサーに戻した。
ジャワコーヒーの野性的な強い苦みもたしかに良い。
だが、ヒトラーのせいで手に入らなくなったモカマタリやエチオピアン・モカのすっきりとした酸味が、このところ無性に恋しいのだ。
そんな大石の表情にちらりと目を遣った原がすかさず
「コーヒー豆の開放も重要事項というわけですか」
と、真面目な顔で混ぜ返した。
「そう、最重要事項だ、俺にとっては。ハハハ」
大石はそう軽く笑って受け流したが、ナチス海軍の『鉄十字の鎌』はじつのところ頭の痛い問題だった。
地中海を拠点として、アフリカから南米へと伸ばされつつあるハーケンクロイツ・ライン。
もしこの戦略ラインが完成してしまえば、大西洋の制海権はヒトラーの手に握られてしまう。
大石の瞳の光がほんのわずか暗くなり、考える目の色になった。
リビア……ギニア要塞……カメルーン……。
突破するとしたら……それしかないのか、他の方法は……。
――原は真剣な面持ちで、そんな大石の表情の動きを何一つ見逃すまいと、じっと見守っていた。
コーヒーの湯気だけが、ふたりの手元のカップから柔らかく揺らいでいた。
だがこのときは脳裏に何も閃くものがなかったのだろう、大石はほどなくいつもの笑顔に戻った。
「――で、何の話だったかな、そうだ、米軍のプールだ」
大石は目の色はもうすっかり元通り明るく快活になっていた。
「せっかく泳げるんだ。みんなで行かないか、いい気分転換になるぞ」
「……私でしたらお気づかいなく」
気が抜けたように、原はふぅと小さくため息を漏らした。
そして手の中の少しぬるくなりかけたカップに視線を落とした。
原はそれ以上何も言わず、コーヒーを静かに口にした。
――カチャ……カチャン。
来客用のウェッジウッドだけが澄んだ音を立てていた。
「……なんだ、泳ぎたくないのか?」
不満そうな大石の声に原は目を上げて
「ええ、わざわざ泳ぎたくありません」
彼はそうはっきりと断った。
だがそれで、はいそうですか、と引き下がる大石ではない。
片頬に愛嬌のあるえくぼを浮かべ、目にぐっと力を入れて、大石は原を口説きにかかる。
「そんなこと言わず」
「いいえ、結構です。別段運動の必要も感じませんし」
「そうか? 運動も大切だぞ、いい気分転換になる。せっかくの機会なんだから――」
「……」
最後まで聞かず、原は無言で頭を横に振って見せた。
それを見て大石は不思議そうに首を傾げた。
そんなにイヤか? なぜ?
「さては、水泳は苦手なんだな?」
「別に、そういうわけではありませんが」
「ならいいじゃないか」
原の表情が硬くなってきたのに、大石はしつこく畳みかける。
「いいえ、そんな暇ありませんよ、私は今回レイキャビクには参りません」
「え? イーサに残るのか?」
「捻挫した足首がまだ治りきっていませんし……どうぞ他の参謀をお連れ下さい」
原の断固とした口調にさすがの大石も口を閉じた。
彼の参謀長はいつになく強硬だ。
いつもなら来るなと言ってもついてくるのに、行かないだと?
足ならもう良くなったと今朝言ってたばかりじゃなかったか?
どうしたんだ、いったい? どうしてそんなにイヤなんだ?
意固地な表情でソッポを向いてしまった参謀長を、大石は好奇心をあらわにしてのぞき込んだ。
「もしかして、あれか、ヤンキーの前で裸になるのが嫌なのか?」
原の顔が一瞬こわばった。
「……ハハハ、シャイなんだな、原君は」
無神経な大石の笑い声に、原のどこかがプツンと切れた。
肩を怒らせて原が通路を突っ切っていく。
金の参謀職緒が肩先で揺れている。
長官室を辞した参謀長は何やら立腹している様子だった。
大股でずんずんと通路を渡りきり、彼は参謀室のドアに手を掛けた。
――バンッ!
乱暴にドアを開け、彼を見て慌てて起立する参謀たちの間を通り、自分の席に着くなり原は声を張り上げた。
「来週のレイキャビクでの合同会議だが、長官が会議の後に米軍基地の温水プールで遊泳されることになった……! 当然、長官おひとりで遊泳というわけにはいかない」
原はそこで一息ついた。
「で、長官と一緒にヤンキーの前で泳ごうというやつはいるか?」
やけくそのようにそう言い放つと、原はぐるりと参謀たちの顔を見回した。
「ただし、泳ぎの下手くそな者は許可できない。日米対抗リレーなんて事態になりかねないからな……行くからには、日本代表としていってもらう!」
参謀たちは顔を見合わせた。
そんなことを言われては。
「誰か泳ぎの得意な者はいないのか!」
参謀一同、しーんとして声がない。
原は舌打ちをしそうなしかめ面になった。
「なんだ、いないのか!」
ええい、どいつもこいつも! 使えん奴らだ!
自分のことを棚に上げて原は苛立たしそうにもう一度彼らを眺めまわした。
しおらしげに視線を床に落として俯いている参謀たちのなかで、図体の大きな男がひとり、他人事のようなぼーっとした顔つきで突っ立っている。
例によって磯貝だ。
きりきりと原の眉が険しくなった。
この野郎! のほほんとしやがって!
「磯貝! おまえに行ってもらうぞ!」
「は? 私? え、えーっ」
思った通りのワンテンポずれた反応に、原の切れ長の瞳が冷たく細められた。
「なんだ、泳ぎは苦手か」
「いえ、苦手ではありませんが、選手になれるような腕前では――」
ぼそぼそと言い訳をしかかるのを遮って原は決めつけた。
「赤帽でなかったらかまわん! 水泳達者は日本武尊から調達する。おまえは水に浸かっているだけでいい。幕僚なしで長官をレイキャビクに遣れないからな!」
※赤帽……兵学校の水泳訓練では泳げない生徒に赤い水泳帽を被せた。