◆冬の怪談
「幽霊が出る?」
怪訝な顔で大石が聞き返した。
明日実施する夜間戦闘訓練の最終打ち合わせが終わり、一同は大石のコーヒーでくつろいでいた。
話題を出した副長が申し訳なさそうに説明する。
「はい。艦橋甲板付近に出ると兵たちが噂しておりまして。とくに航海員、電信員の中には夜間当直を怖がるものも出ている始末です。持ち場に艦橋甲板も含まれますから。そうですな、航海長」
「は。つまらぬ噂ではありますが」
早水航海長も噂の存在を認める。
「何が出るんです?」
目を丸くして磯貝が余計な口を挟んだ。
すぐさま隣の席の原にきつく睨まれて磯貝はしゅんとした。
「あ……なんでも若い水兵だそうですよ、噂では」
早水航海長は磯貝の興味本位な問いにも嫌な顔をせず答えてやった。
「しばらく副直将校を夜間見回りに出してもよろしいでしょうか?」
副長が艦長にそう提案して話題を無難なほうに戻そうとする。
「そうですな、しばらくそれで様子を見ましょう。さっそく今晩から手配してください」
艦長が穏やかに判断を下す。
「それでよろしいでしょうか、長官?」
「ああ、任せる。しかし真冬に出るとはとんだ季節外れの幽霊じゃないか、ははっ」
大石が笑い飛ばしてその話題は作戦室では終わったのである。
しかし、その日の夕食の席で幽霊話はまた蒸し返されていた。
「……大きい艦なら怪談の一つや二つはあるもんで。兵学校にも出るという噂はありましたからねぇ」
早水がひょうきんな顔で両手の先をぶらんと下げて幽霊の真似をしてみせる。
「ああ、俺の期でも言ったものだぞ。校舎のはずれの柳だ。そうだな、艦長」
「ええ、三本目の柳でしたかな。銃クレ柳ですな」
大石に富森も応じた。
彼らふたりは一期違いの先輩後輩になる。
「小銃を隠された生徒の話ですか?」
原も話題に参加する。
「それだ。ははは、そういうつまらん怪談は代々伝わるものなんだな。おい磯貝、おまえは何の話かわかるか?」
大石は一番若い磯貝に話を振った。
「はあ、首を吊った生徒が一挺、二梃……やっぱり足りないから貴様の銃をくれぇ。ってヤツですか?」
「ん? 少し違うぞ、俺の知ってる話と。磯貝おまえ、番町皿屋敷とごっちゃにしてないか?」
「あ、そうでしたか。どうだったかな……?」
考え込む磯貝にテーブルの幕僚・科長たちは笑い出す。
「なんだ。怪談の伝統も怪しいもんだ」
「ひとつガンルームの少尉にでも聞いてみるか」
「どうアレンジされているか楽しみだな」
ひとしきりテーブルが笑いに沸いた。
「それはそうと本艦の幽霊話ですが、おかしいじゃないですか。日本武尊が建造されてからまだひとりも犠牲者は出ていないのに」
原がばかばかしそうに言う。
「理詰めで考えればそうなんですが、見た人間がいるとなると仕方がないですよ。噂ってものはすぐ広まります」
副長が申し訳なさそうに弁解した。
「そもそも幽霊などとは非科学的です。きっちり常識で考えさせるべきでしょう」
原は手厳しい。
「それはそうですが、夜の艦内というのは薄気味悪いものですからな。怖いと思えば洗濯物でも幽霊に見えるでしょう」
艦長が穏やかに助け舟を出す。
「出るっていうのは水兵なんでしょ? 色っぽい女の幽霊なら興味もわくんですがなぁ、がはは」
木島は脳天気に豪傑笑いをした。
もし幽霊にセクハラという意識があれば、女の幽霊のほうで木島を避けるだろう。
「水兵と云えども未練たらしく化けてでるなど武人の恥さらしだ。出てきたら俺が喝を入れてやる」
大石は変なところで精神論を持ち出した。
とは言っても大石のようなタイプの人間は、幽霊が出てきても気がつかないのではあるまいか?
「……本当なら気の毒なことですなあ」
幽霊にまで同情するのは富森ぐらいなものだろう。
しかし彼に陰々とお経を唱えられても、幽霊がありがたがるかどうか?
「幽霊と言えば、前任地の海兵団でこんなことがありましてね……」
普段は無口な副長までが幽霊話を始めた。
「ほう、それで」
「なんとなあ」
みな面白がって合いの手を入れつつ、身を乗り出して大喜びで聞いていた。
ひとり真剣に怖がっていたのは……磯貝だけだった。
怪談の苦手な彼はその晩また灯りをつけて寝るはめになったのである。
次の夜。
「……それでね、その信号旗を間違えて揚げた水兵はね、金剛の信号旗格納所で首を吊ったんです。予備の掲揚索でね……」
早水航海長がニヤリと不気味に笑う。
磯貝は薄暗い幕僚休憩室のソファに縮こまっていた。
話し好きな航海長の怪談は続く。
早水はちらりと磯貝の顔に目をやった。
磯貝は恐怖に目を見開いて話に聞き入っている。
こう真剣に怖がってくれると怪談のしがいがあるというものだ。
今夜は夜戦訓練が実施されている。
原と磯貝もさきほど防空指揮所に顔を出して、いったん休憩室に下りてきたのであった。
磯貝は昨日の幽霊話がこたえているのだろう、艦橋下のこの幕僚休憩室に原をひっぱって来ていた。
「お願いですよ、この時間帯は私ひとりになるんです。ここで一緒に休んでくださいよ」
磯貝に拝み倒されて、原は参謀長休憩室に行かずこの部屋まで来たのだった。
幕僚休憩室はラッタルを挟んで航海長休憩室と向かい合わせになっている。
人が多いほうが心強いのだろう、お茶を一緒にいかがですか? と磯貝が早水航海長に声を掛け、早水がこちらの休憩室にやってきたのであるが……ときならぬ、航海長の怪談が始まってしまったのである。
怪談が苦手なくせに全身を耳にして聞き入る磯貝に、原は笑いをこらえるのに必死だった。