◆ひげ


磯貝は辛いものが苦手である。
カレーも本来あまり好きではない。
なのに日本武尊のカレーは普通の洋食屋のカレーより数倍辛い。
うまい、と評判のカレーらしいが磯貝には口の中がひりひりしてどうも食べづらい。
飯がたくさんあれば何とか食べられるが、ルーがたっぷりかかっているとちょっとつらい。
この頃は食堂係の兵も心得たもので、磯貝のカレー皿には、ご飯大盛・カレールーは端にちょびっと・福神漬け大盛、という変則的な盛り付けを何も言わずともしてくれる。
「ああ、すまんなぁ」
磯貝は恥ずかしそうに給仕の兵に笑いかける。
こういう可愛いところが彼らにも受けがいい。
先に食事を始めていたほかの幕僚たちが磯貝の皿を見て笑う。
カレーが出るたび毎度のことなので、磯貝はさして気にもしない。

スプーンを手に、いただきます、とお行儀よく合掌して磯貝は食べだした。
しかし、食べ方は少々いただけない。
いきなりスプーンでカレー皿の中身をぐるぐるかき回してしまうのである。
ちょびっとのカレールーと多量の福神漬けが混ざって、磯貝の皿は見た目赤黄色のわけのわからないものに変わってしまう。
富森は視線を逸らして見ないフリをしているが、原は露骨に顔をしかめた。
(海軍軍人のくせにテーブルマナーのなっていないやつだ)
磯貝は気にするようすもなく、せっせとスプーンを口に運んでいる。
「おお、磯貝参謀、あいかわらずですな」
木島砲術長が遅れてテーブルにやってきて、作業服のまま顔と手を洗ったかどうかも怪しいなりで、どっかと椅子に腰を下ろす。
「カレーは辛いのが美味いのに」
そう言いながら彼は運ばれてきたカレーの真ん中にスプーンでくぼみをつけた。
そしてソースさしからどぼどぼとソースをカレーのくぼみに注ぎ込む。
あとは磯貝と同じ伝で、ぐちゃぐちゃにかき混ぜる。
(……あれもどうかと思うな)
原は気持ち悪そうに木島の皿から目をそむけた。

富森は粉茶の濃い緑の茶をたっぷりと茶碗に注いだ。
そしてようかんを厚めに切って磯貝と木島に勧めた。
「いつもすまんですなあ、艦長」
「いただきます」
「まあどうぞ」
富森の行李の中身は茶請けの和菓子でいっぱいに違いない。
どういうルートで彼が菓子を仕入れているのかは不明だが、艦長室に行けば必ず菓子にありつける。
辛いカレーのあとのようかんの甘みはまた格別だ。
根っからの甘党である磯貝は口の中の甘みにウットリとした。
木島は美味そうに茶を飲んでいる。
あれだけの量のソースを胃袋に納めたのでは喉も渇くだろう。
ふたりの様子を富森はニコニコと見ている。
以前富森が大石に話したところによると、菓子を食っている人間は善性そのものの顔をしているそうな。
「いわばその人間の本来の仏顔を見られるわけでして。なかなかにお接待していて楽しいものです」
人間観察が富森の趣味といえるかもしれない。

富森の顔を磯貝がじっと見ている。
「どうかなさいましたか?」
富森が彼の視線に気づいて目を細める。
「あの、艦長のそのひげはいつから伸ばしてられるのですか?」
富森のいささか珍奇なひげには誰もが注目してしまう。
彼の顔と名前は思い出せなくても、そのひげだけは覚えている人も多かろう。
「はあ、このひげですか……」
富森はひげをつまんで撫でると微笑んだ。
「もうかれこれ三十年近くなりますかなぁ。なに、結婚の記念にと伸ばしたのですよ」
「はあ……」
「ほう……」
富森の答えに磯貝も木島も絶句した。
「砲術長のひげももしや……」
磯貝は木島を見て尋ねた。
「これは違うよ。こりゃ不精ひげが伸びただけだ」
「はあそうですか、よかった」
何がよかったのかわからないが、磯貝はそう答えた。
「なんだ磯貝さん、あんたも伸ばしたいのかね?」
木島は磯貝のつるつるした顔を見て笑った。
「そうですねえ、伸ばしたことはないんだけど」
口の周りを磯貝は撫でた。
もう夜だというのに彼はひげが濃くないのだろう、まだつるつるしている。
「うーんどうだろうなあ。磯貝さんは童顔だから貫禄がついていいかもしれん」
「そうですなぁ。伸ばすには結構時間がかかりますが」
ふたりの答えに磯貝はにこにこと鼻の下を撫でている。
ひげを伸ばしてみる気になったのだろう。

一日目。
ひげの濃くない体質の磯貝は、別に毎日ひげをあたらなくても支障はない。
二日目。
少しまばらにざらついてくるが別に問題はない。
三日目。
さすがに不精ひげっぽくなってくる。
原が少し嫌そうな目で磯貝の顔を見たが何も言わなかった。
四日目。
たまりかねたのか原が苦情を言った。
「どういうつもりだ、その顔は。見苦しいぞ」
「はっ。ただいまひげを伸ばしている最中でありまして」
「ひげ? 伸ばすのか?」
「はっ」
嬉しそうに磯貝が答える。
彼は目の前の原の口ひげをうらやましそうに見つめている。
「そうか……好きにしろ」
原はおかしげに唇を曲げると横を向いた。
(ぜんぜん似合わないぞ。おまえ鏡を見てわからないのか?)
「あの、参謀長」
「なんだ」
「あの、失礼ですが、どうしてひげを伸ばそうと思われたのですか?」
何を訊くんだと言いたげに原が振り返った。
磯貝が目をキラキラさせて彼の答えを待っていた。
「これか」
原は自分の短く整えられた口ひげを撫でた。
自分の容姿に似合うと思ったからに決まっている。
「……別になんとなく伸ばしてみてそのままにしているだけだ」
原はそう素っ気無く答えた。
「いいですね、ひげは男らしくて。参謀長はよくお似合いです」
磯貝は憧れをこめて原のひげを見つめた。
「そりゃどうも」
原は短く答えると自分の席に戻っていった。
(ロクなことを思いつかんなあ、磯貝は。まあ好きにしろよ)
口元に浮かんだ笑いを納めると彼は仕事に頭を切り替えた。

一週間がたった。
磯貝のまばらなひげも薄黒く伸びてきた。
ただし、俗に言う泥棒ひげ……口の周りに丸く生えているあれである。
まるきり似合わない。
艦橋に上ってきた磯貝を見て、入り口付近にいた若い暗号担当士官が噴きだした。
(……失敬な)
磯貝は笑った士官を恨めしげな目で睨んで通り過ぎ、自分の持ち場に就いた。
「おい、参謀長」
大石は小声で原を呼んだ。
「あれをなんとかできんかね?」
磯貝のほうを大石は目顔で指した。
「はあ、あれですね……」
原もちらりと磯貝を見た。
「どうにもなあ、あれはいかんのではないか?」
「はあ、しかし本人が気に入っているようですので」
「あれでか? 俺は笑いをこらえるのに苦労しているぞ」
「みな同様に苦労いたしておるようです」
原がすまして答えるので、大石はじれた。
「なあ参謀長、君からひとつ磯貝にやめるように言ってくれんか」
「それはできませんよ」
原はにべもなく断った。
「私だってひげを生やしているのに、おまえは似合わないからダメだなんて言えません」
「それもそうだなあ。規則違反でもないし……しかしなあ」
大石は断られながらも押せば原がうんと言うのではないかと、彼の顔をちらちら見ながらねばる。
(そうはいきませんよ。都合の悪いことはみんな私に押し付けようとするんだから)
原はすまし顔を崩さない。
「なあ、原君……」
「ご自分でおっしゃってください、長官」
ぴしゃりと言うと原はにっこりと大石に笑いかけた。
原の切れ長の目が意地悪い喜びできらりと光った。
(たまには自分で磯貝に言ってくださいね。自分ばかりがいい子にならずに)
「そうか……」
大石はいつもは従順な原に断られてがっかりしたようだ。
が、懲りない大石はひょいと右手前方の艦長席に目をやった。
富森はふたりの話を聞いていたのだろう、こちらを見ていた。
しかし大石が口を開く前に、富森はにやりと笑うと長い口ひげをつまみながら前方に向き直ってしまった。
私もひげがありますので磯貝説得には不適格者です、ということだろう。
ふうっと大石がため息をついた。
(艦長にも逃げられたか)
「そのうち見慣れるんじゃないですか」
原がニヤニヤして言うのも憎たらしい。
大石は相手が男でも女でも面食いなのだ……。
不細工なスタッフは我慢できそうもない。