◆ひげ(後編)
大石は長官室に磯貝を呼びつけた。
何とか磯貝の気持ちを傷つけずにひげを剃らせたい。
大石はその心積もりをして彼を長官室に呼んだのである。
「御用は何でありましょうか」
大石に呼ばれて磯貝は嬉しそうに部屋に入ってきた。
そのおかしなひげ面を見て大石は笑いをこらえるために顔をしかめた。
「肩……でありますか?」
磯貝は大石のしかめっ面を肩こりのせいだと思ったらしい。
「あ、うん。ひとつ頼もうか」
肩ならいつでも凝っている。
予定外のことではあるが、磯貝にそう言われると揉んでもらいたくて肩がむずむずしてくる。
大石は上着を脱ぐと揉んでもらう体勢をとった。
磯貝のマッサージならいつでも歓迎だ。
磯貝も上着を取り、シャツの袖を捲り上げる。
磯貝が背後に回ってくれたほうが、おかしな顔を見ずにすむので話しやすい。
大石はそう思った。
「うーーむ……」
磯貝の親指は魔法のようにすうっと凝りのツボを探し当てると、筋に沿ってグッグッと程よい加減で押してくる。
あまりの気持ちよさにとろとろと眠気が襲ってきた。
(こりゃあ話なんかあとだ……うーむ……)
大石はいつものように寝てしまった。
大石はふんわりと夢の世界から帰還した。
首筋から背中、腰とほかほかと血行がよくなって気持ちがいい。
まるでくらげになったように全身から力が抜けてしまっている。
またいつの間にかソファに長々とうつ伏せに寝ていた大石だった。
磯貝は黙々と背中をやわらかく揉んでくれている。
「ああ、磯貝。すまなかったな」
大石は体を回転させて仰向きになり大きく伸びをした。
「ああー、気持ちよかったぞ。すっかり寝込んでしまったんだな」
壁の時計を見ると一時間以上経っていた。
「これはすまん。もうこんな時間じゃないか」
「いえ、私はとくに用事もありませんでしたから」
磯貝がにこにこと答える。
手指が疲れても敬愛する大石の笑顔で十分に報われる。
大石は寝起きのぼんやりした目で磯貝の顔を見つめた。
(どうしてひげなんか伸ばしたがる? かわいい顔をしているのに)
大石は片手を伸ばして磯貝の顔に触れた。
磯貝は唐突な大石の行動に目を丸くして硬直した。
「なあ磯貝。このひげなんだがな……」
大石は半身を起こして磯貝の目を見て微笑んだ。
大石の手が磯貝の顎から頬にかけてを撫で回している。
磯貝の頭の中は真っ白になった。
「どうにもおまえには似合わんよ。なにかわけでもあるのか?」
大石の手がやっと磯貝の顔から離れた。
「い、いえ、とくに」
「そうか。だったらもうやめないか? 俺は前のおまえの顔のほうが好きなんだが」
大石はやや眠たげな瞳で磯貝に優しく微笑みかけた。
「ん? 赤くなってどうした? 可愛いやつだな……」
低く囁くような大石の声が磯貝の耳をくすぐった。
(わわわ……)
フェロモンを含んだ大石の視線と声は磯貝には刺激がきつすぎたようだ。
「たった今剃ってまいります!」
そういい残して磯貝は長官室を逃げるように飛び出した。
「おーい、おまえ上着と帽子……まあいいか」
大石は磯貝の忘れていった上着と帽子を手にくつくつと笑った。
さて、夕食時の士官食堂。
幕僚・科長たちのテーブルは奥まった一角にある。
ひげを剃った磯貝はテーブルについた一同の注目を浴びていた。
「剃っちまったんですか、磯貝参謀。もう少し我慢したら立派なひげになったのになあ」
木島が残念そうに言った。
(そうか砲術長が煽っていた犯人だったのか)
原の目が光る。
富森が磯貝の顔をじっと見て言った。
「磯貝参謀。切り傷をこさえましたな。消毒はきちんとなさいましたか?」
不器用な磯貝がひげを剃るときに顔を切ったのだろう、何箇所か切り傷ができている。
「はあ。後で医務室に行ってきます」
磯貝が恥ずかしそうに言った。
「そうなさいよ。化膿したら大変ですからな」
富森が心配そうに言う。
「長官。お手柄でしたね、磯貝のひげ」
原が大石に囁いた。
「ふむ。まあな」
大石はなんでもないように答えた。
今日の夕食は焼き魚だった。
原は丁寧に小骨を取り除きながら考えた。
(どうやって説得したのだろう、長官は。磯貝は長官が大好きだから剃れと言われれば剃るだろうが)
屈託なく沢庵をバリバリと咀嚼している大石を横目で見ながら原はいぶかる。
(あんなにひげを楽しみに伸ばしていたのに、磯貝も可哀想にな。長官は似合わないから剃れ、とはっきりあいつに言ったんだろうか?)
「小骨が栄養になるんですぞ、小骨が」
テーブルの反対側で木島が豪快に焼き魚をがじがじと丸かじりしている。
磯貝も木島の真似をして齧りだした。
(ネコかあのふたりは……)
原は呆れて眉をひそめた。
「ほっておいてやれよ」
大石が笑って原に言った。
「ほっておきますよ、ばかばかしい」
(まさか、無理やり押さえつけてひげを剃った、ということはないだろうな? 磯貝のあの傷……)
原はまだ沢庵に手を出している大石を見た。
「ダメですよ、塩分の取りすぎは。艦の漬物は辛すぎるんですから」
「ん、そうだな。もうやめておこう」
大石は素直に箸を置いた。
テーブルの反対側で磯貝がむせている。
「喉に骨が刺さったみたいなんです……」
涙目で磯貝が情けなさそうに言った。
「あーあ」
「茶は飲んだか」
「飲んだけどダメでしたぁ」
テーブルが騒がしくなった。
「……ご飯を丸めて飲み込んでみなさい」
富森が静かに教えた。
「丸めるんですか?」
「でかすぎるよ、あんた」
「いいから飲みなさい」
「噛まないで飲む」
「茶をもってこい!」
テーブルはさらに騒がしくなった。
何事かと他のテーブルの士官達がこちらを注目しているし、給仕係はやかんを持ってうろうろしている。
そこへ誰かが給仕係にぶつかって、茶が床にぶちまけられた。
またひと騒ぎになった。
「……ああ、もういやだ……」
原はテーブルの上に肘を突くとうんざりしたようにつぶやいた。
「ははは、まるで小学校だ……こら、いいかげんにせんか! 席に着け!」
大石は幕僚たちを一喝した……。