◆池のほとりで
[旅順市] 市街は中央を龍河で二分され 東を旧市街西を新市街と呼んでおり 旧市街は商業区をなし 新市街は露治時代建設された町で官衙(かんが)学校が多く且住宅地である 人口は昭和八年調に依ると 日本人一万二千二百六十余名 満州人十二万五千三百余名 外人十余名となっている
――昭和九年四月発行 海軍寄港地案内より
旅順新市街の南側にある後楽園は、ロシアが統治していた頃に作られた公園だ。
ここは満州の植物を集めた植物園としても有名である。
一万坪以上の広い敷地の中に鬱蒼と樹木が茂り、園内には水生植物を栽培した大きな池もある。
春には桜の名所として花見客で賑わうが、春の遅い旅順でも五月の半ばを過ぎると桜の花はすでにない……。
「すっかり葉桜だ」
前原がソメイヨシノの並木を恨めしげに見上げた。
背広を着た前原は軍服のときよりも華奢に見える。
綺麗な女顔で細身の背広を着こなすと、彼は実際の年齢よりもだいぶ若く見えた。
「葉桜もまたいいものです」
隣に立つ富森が穏やかな笑みを口許に漂わせて、萌え出した若葉に目を遣った。
目は鋭いがその横顔には寡黙な温かみが滲み出ていた。
彼は前原より一回りほど上ではあるが、前原とは反対にその落ち着いた物腰は、実年齢よりも老成した印象を与えていた。
すらりとした美青年と眼光鋭い中年の紳士……春の植物園を連れ立って歩くふたりは、人の目にはどういう間柄に映っただろう。
「もう毛虫がいそうだ」
「まさか」
大げさに顔をしかめて見せる前原に富森は微笑む。
……ひょっとして、毛虫が苦手なんですか? 前原さん。
「実のなる頃までは、大丈夫ですよ」
一応そう言って、富森は虫嫌いかもしれない前原を安心させてやった。
「そうでしたっけ。桜はあとで虫がつくからイヤなんだなぁ」
文句を言いながらも、生き生きした瞳で葉桜を見上げる前原に富森は安堵していた。
今朝は富森から言い出して、この後楽園に前原を誘ったのだ。
桜なんてもう終わりでしょう、と起きぬけの前原は気乗りしない様子だったが、いつになく富森は強く後楽園での散策を勧めた。
――このところ、どこにも出かけてないではありませんか。
――ふふ、あなたとこうしているほうが……。
――昼間ぐらい外に出ましょう。
――ふうん、淡白なんですね。私にもう飽きたんですか。
――そうではありませんが、せっかくいい季節になってきたのですから。
遅い朝、乱れたベッドの上で、拗ねてるのか甘えてるのかわからない前原とそんな会話を交わした後、彼をなだめすかして後楽園に連れて来たのだ。
新市街にある後楽園までは、東洋橋を渡り旅順駅を過ぎ、扶桑町を経て大迫町に入らねばならない。
徒歩で行けないことはなかったが、乃木町まで歩いて乗合バスに乗ると大して時間も掛からなかった。
日曜の昼前、花の終わった後楽園はぽつりぽつりと家族連れが遊びに来ているだけで、思ったより人は少なかった。
あたたかな春の日差しの中をふたりは少し離れて歩いている。
肩を並べて歩くと、ついつい軍隊式に歩調を合わせてしまうのだ。
背広姿の体格のいい男がふたり……日曜ののどかな公園にただでさえそぐわぬ風体なのに、これでは軍人だと丸わかりだ。
ふたりは無意識に合わせている歩調に気づき、苦笑いをして少し離れた。
ゆっくりと景色を楽しみながら真っ直ぐ歩く富森、さっさと早足で先へ進んだり立ち止まったり、気ままに歩く前原。
生き生きとした表情で前原がときおり振り返っては富森に笑いかける。
屈託のないその無邪気な笑顔に、富森は心が晴れるような思いがする。
この笑顔を見せるとき、前原はこの上なく感じのいい青年になる……人懐こく行儀のいいおっとりとした好青年……富森の一番好きな前原だ。
それでいて彼がふと見せる、どこか寂しげで人恋しげな瞳の色にも、富森は強く惹かれている。
前原の持つ翳りに惹かれながらも、富森はできればそれを取り払ってやりたかった。
前原には屈託のない笑顔で、そのまま明るい陽の光の下を歩んでほしかった。
辛い恋に心を蝕まれることなしに。
……私はあなたを手助けしたかったのに。
自分の存在が結局は前原の心の悩みを深くしたことに、富森は責任と苦い後悔を感じていた。
……私では大石さんの替わりになれるわけもない。あなたは私に飽き足らず、私はあなたを持て余しだしている……!
涙まで流して自分にぶつかってきた彼を、どうしてやることもできなかった無力感が富森を責めさいなんでいた。
失望に暗く沈んだ前原の瞳を見るのがひどく辛い。
……せめて、今日は気分を変えたい。あなたと穏やかな春の一日をすごしたい。
富森はまばゆい日差しに目を細め、木々の鮮やかな緑をゆっくりと見渡した。
いろんな樹木の若葉の淡い色が公園を明るく染めている。
白っぽい、あるいは黄色っぽい艶やかな若緑が、匂い立つようにふたりを取り囲んでいる。
若葉の下を歩く前原の笑顔も、若緑の反射光に明るく染まっていた。
昼日中から、ホテルの一室で前原とすごすのは苦手だった。
締め切ってはいても、カーテン越しの昼の光が富森の気持を現実に引き戻す。
男と寝ている後ろめたさ、昨夜から続く濃密な時間……もともと生真面目な富森は居たたまれない気分に陥るのだった。
部屋にこもっている限り、前原は彼に腕を伸ばして誘ってくる。
嫌がる彼に却ってそそられるのか、朝日の差し込むベッドの上で前原は執拗に挑んでくることもある。
いたぶるような視線を彼にそそぎ、前原は淫らな笑みに唇を歪める。
白日の下に曝されるであろう自分の姿を思っただけで、富森の身体は羞恥にこわばった。
強く拒絶されないのをいいことに、そんな彼を捕らえ、容赦なく見据える残忍で好色な前原の目。
こんなとき富森は前原が恐ろしくなる。
何をされるかわからない怖さがある。
自分が男の欲望の的になっているという、得体の知れない恐怖感に富森は身がすくむのを覚える。
これは昼日中の行為だけに限ったことではない。
覚悟を決めたつもりでも、所詮自分は同性愛者にはなりきれないことを、富森は夜々痛感させられていた。
このところ、前原の行為が不穏なため、よけい富森の気持は引き気味になっていたのである。
エスカレートしそうな局面にいちいち神経を尖らせるのはなんとも疲れるものだった。
……それはやめてください。
熱く燃えるような前原の唇や手を、必死で彼は押しとどめた。
……無茶はしませんよ。信用してください……。
そう耳もとに前原は優しく囁いてくるが、全面的に信用するわけにはいかない。
なんといっても相手は貪欲な前原だ。
それに、ベッドの上では成り行きという無法なやり口も存在しているのだから……。