◆池のほとりで〜続き


「ああ、池がある」
樹木の間からちらりとのぞいた水の色に、前原が無邪気な声を上げた。
前原は桜並木の道から外れて、池のほとりへ伸びた斜面を勢いよく駆け下りた。
まだ枯れ色の斜面にはところどころ短い若草が萌え出している。
斜面の下のくぼ地には、思いのほか大きな池が樹木に抱かれるようにして静かに水を湛えていた。
前原は池のふちに立って池の水を覗き込んでみた。
青黒く見える水は半ば澄み、底のほうは堆積した泥でどんよりと濁っている。
静まり返った黒い水面(みなも)には青空と白い雲が映っている。
動かぬ水面を雲だけが流れていく……。


斜面に根を張った桜の老木が池のすぐそばまで枝を伸ばしていた。
前原は斜面に戻り、老木の根元に腰を下ろした。
カサカサに乾いた桜の古い花びらが、吹き寄せられて岸辺に溜まっていた。
春が過ぎていく。
これからの初夏の季節には、駆逐隊は警備区域の巡航に出る。
仁川、青島、芝罘(チーフー)……。
……しばらく、富森さんと会えなくなるな。
前原は背広の上着をとると、芝草の上にごろりと寝転がった。
桜の若葉と木漏れ日を眩しげに彼は仰ぐ。
「ふふ、本当に気候がよくなったなぁ。ねえ富森さん」
寝転がったまま、彼は富森の顔を見上げた。
後から来た富森は彼の横に立ち、目を細めて池の水面を眺めていた。
「そうですね、いい季節になった」
「ねえ」
「なんですか?」
「巡航はいつからになるんですか?」
「それがどうも……。北支の状況が不安定なので待機命令が出されるかもしれません。司令部のあなたのほうが詳しいでしょうに」
富森はむずかしい顔になって、前原のほうに向き直った。
「それが、なんだか司令部内もバタバタしていて、さっぱり」
「そんな状況で……。いいんですか、副官が司令部に詰めていなくても」
「ふふ、そんな点数稼ぎをして、副官としての覚えがめでたくなったら大変だ」
「追い出してもらおうというハラですか? 呆れた人だ」
気楽そうな前原の顔を富森は咎めるように見た。
前原は笑って彼を見上げている。
綺麗なやさしげな顔だ。
男らしいきりっとした顔立ちだが、少ししゃくれた口許がなんとも甘く可愛らしい。
笑っていた前原がふと真顔に戻る。
その瞳がしっかりと富森の視線をとらえた。
……巡航に出てしまえば夏まで逢えない。いま別れたらあなたはきっと……。
思いつめたような必死な色がその瞳に浮かぶ。


前原は身体を起こすと、無言で立ち上がった。
また富森に絡んでしまいそうな自分に嫌気がさしていた。
富森の視線を避けて、彼は無造作に上着を取り上げた。
枯れた水茎だけがわずかに突き出た、まだ寂しい春の池に沿って、彼はゆっくりと歩き出した。
松の疎林が水面にねじれた枝を伸ばしている。
池を廻る小道の黒土はじっとりと湿っていて、腐った水の臭いがかすかにした。
去年の落ち葉が黒く柔らかな泥を作り足元はややぬかるんでいた。
前原はぬかるみを嫌って小道を外れ、雑草が伸び始めた池の縁に歩を進める。
新緑の後楽園はたしかに美しい。
春の日差しも暖かな空気も、すべてが心地よい。
……だが俺はもっとあなたと過ごしたかった、ふたりきりの部屋で。
池を前にして前原は立ち止まった。
……この頃あなたはどこかよそよそしい。俺と距離を置きたがっているように思える。あなたがまた遠くなる、このままでは……。
池の黒い水面を白い雲がゆっくりと往きすぎる。
前原は空を仰いだ。
何の変哲もない、春のひつじ雲が青空に浮かんでいた。
だが池面の空は異世界の存在を示すかのように神秘的で、雲は前原の足元をあてどなく漂い流れ往く……。
「身投げするには浅すぎますよ、この池は」
振り向くと富森が微笑んでいた。
「そんな思い詰めた顔をして、池を覗き込むのはよしてください。心配になります」
情のこもった富森の声に前原は急に泣き出したいような切なさを感じた。
……富森さん、好きだ……なのに、あなたは……。
「……身投げするとしたら、あなたへの失恋が原因かな」
拗ねたような言葉が考えるより先に口をついて出てしまう。
「それはまた、何のあてつけです?」
富森は彼の言葉に眉をひそめた。
「……あなたが身投げなんて言うから」
前原は小さな声で口ごもりながら答えると、池に視線を戻した。
「深刻な顔で池をごらんになってたからですよ。どうしたんです?」
「きれいですよね、水面の雲が……」
「雲……? ああ、映っていますね。きれいだ」
「水の中にも空があるんですよ、きっと。空の雲は遠すぎるが、あの池の雲なら近そうだ……じゃぼんと飛び込めばね」
本気なのか冗談なのか? 富森は真顔にかえって前原の顔を見つめる。
「またそんな心配そうな顔をする。身投げ志願じゃありませんよ」
前原は寂しげに微笑んで見せた。
失恋――何気なく口をついて出た言葉に、前原は自分で驚いていた。
……失恋……そうなのか? たとえば富森さん、あなたは俺を必要としてくれない……。
「ねえ富森さん、あなたはどうして私に……」
――私を欲しくもないのになぜ近寄ったのですか?
そう問いかけようとして、前原は言葉に詰まった。
……それは俺があなたのやさしさに無理に付け入ったからだ……。
富森の情深い性格に付け入って、無理に関係を持たせてしまった。
富森に文句を言う立場にないことに、今になって思い当たり前原は口をつぐんだ。
富森は黙って前原の言葉の続きを待っていた。
「すみません、なんでもありません」
「……それは、なぜ近寄ったか、という質問ではありませんか?」
穏やかだが鋭い富森の目は前原の表情を的確に読み取っていた。
「恋もできない冷たい男のくせに、なぜあなたに期待を抱かせるような真似をしたか、とおっしゃりたいのでしょう?」
富森は目を池の表面に転じた。
青空を映した水面に白い雲が静かに流れていく。
富森は静かな表情で池の水面を眺めていた。
傍らの前原をかえりみることなく、彼は沈んだ表情で水面だけを見つめていた。
彼のまなざしは暗く沈み、いつしか彼は前世の記憶に思いを馳せていた。


黒い水面を見るとあの海を思い出す――
富森は重油で真っ黒に覆われた海面を思い出していた。
……あの黒い海、前世の私が艦と共に沈んだ海。
愛したり憎んだりする熱い心は、あの海に置いて来てしまったように富森は思う。
転生して此の方、自分の心が空ろになってしまったように思えてならない。
この世界の何もかもが他人事のように心許ない……。
富森にはこの後世は前世の影でしかないように思えた。
このどこかしら違和感のある世界に、彼はどうしても馴染むことができなかった。
同じ山河があっても、同じ顔の人がいても、ここには彼の大切だった人がいない。
愛する家族や友人、部下たち……この世界では影も形もない人のことを、彼は忘れられなかった。
彼らのことを忘れて、いまさら人生をやり直すことをしたくなかった。
……悔いや過ちはあっても、私は一度きりの人生を精一杯生きた――もういいのだ。
愛した身近な人々の思い出を胸に、静かに中有に沈みたい。
……なぜ、私を転生させた? なぜ、あの海底にそのまま眠らせておいてくれなかった?
彼が率いた艦隊や将兵の屍と共に南の海で朽ち果てるのは、武人である富森にとっては本懐であった。
形を失いつつある赤錆びた旗艦の中に、静かに眠ることこそ彼の本望だった。
富森は池の水面に前世の海を重ね合わせて、彼の望みを繰り返していた。
……私を前世に還してくれ。私をあの海底に還してくれ……!


「富森さん」
前原が青ざめていた。
「すみません、変なことを言ったりして。気を悪くされたのなら謝ります。どうか」
「いや、そんな」
富森は前原の声に我に返った。
「怖かった……あなたが別の人のような怖い顔で」
前原は不安げな必死な面持ちで、富森の腕を掴んだ。
「少し考え事をしていただけですよ」
「何をです? とても普通の雰囲気じゃなかった。もし聞いていいのなら……」
「そんなたいしたことじゃありません」
前原の真剣なまなざしからふっと視線をはずすと、富森はいつもの静かな表情で空を見上げた。
「……そうですか」
穏やかな言葉ながら突き放すような富森の返答に前原の顔がこわばった。
……何も話してくれない。
あなたはひとりだ、そうしていつも。
静かに微笑みながら、心の中の扉を閉ざす。
せめてそばにきて、心安く憩ってはくれないのですか?
俺があなたにしてもらったように、俺もあなたの助けになりたいのに。
前原は掴んでいた富森の腕を離し、ため息をついた。
何も聞きませんから、せめて寄り添わせてください、あなたの心に。
彼は祈るように目を黒い水面に転じた。


やるせない時間がすぎた。
ただ並んで池を眺める寂しい沈黙を前原が破った。
「あの池の雲……たしかにあの雲なら手が届きそうな気がします。空の雲は遠すぎる……」
前原は足元の小石を拾うと池に投げ込んだ。
ばしゃん……水面は乱れ、波紋が広がった。
前原が更に何か言募ろうとしたとき、ちょうど昼のサイレンが風に乗って聞こえてきた。
少し遅れてまた別のサイレンが響いてきて、高く低くサイレンの音が重なり合った。
ふたりは方角を確かめるように、無意識に耳を澄ましていた。
塩田? それとも満鉄の桟橋だろうか?
富森は腕の時計を見た。
時計の針はちょうど十二時を指していた。
文字盤から目を上げると、富森は前原の前に立ち気遣うように彼の顔を覗き込んだ。
「もう少し、歩きませんか。それから昼にしましょう……その、あなたさえ、良ければ」 
「ええ……」
前原は目を伏せて小さくうなづいた。
本当は今、富森に抱きしめてほしかった。
不安を打ち消すように、しっかりとその腕に抱いてほしかった。
言い出せなかった言葉を飲み込み、前原は先に立って歩き出した。
池のほとりにふたりの影が揺れて消え、水面には白い雲だけが静かに浮かんでいた。