◆アカシアの旅順


季節が夏へと移りかけている。
要港部庁舎の白い廊下にまばゆい朝の光が差し込んでいた。
五月の終わりのコントラストのきつい日差しを受けて、廊下を歩む富森の真っ直ぐな背中が際立って見える。
普段はのんびりとした旅順要港部だが、今朝は幾分人の動きが慌しい。
旅順要港部所属駆逐隊に治安出動命令が下ったのである。


天津で今月初旬に起きた親日派射殺事件が発端となり、北支の緊張は急激に高まっていた。
これまでも国民政府が日本側の要求を飲み、河北省北部が日本の統轄下におかれたことに中国民衆は憤激し、抗日運動は激しくなる一方だった。
このため例年なら警備区の巡航に出ているはずの駆逐隊も、不測の事態に備えて長らく旅順港に待機していた。
出動第一陣として、まず富森の《藤》が今回の騒動の火元である天津に出動する。
出動名目は天津居留民の保護であった。


富森は司令部での用件を手早く済ませて、幕僚事務室のある東棟に急ぎ足で向かっていた。
……前原さんは居るだろうか?
富森が昨日司令部で命令を受け取ったとき、あいにく前原は新京へ出張しており会うことができなかった。
今朝も会えないと次はいつ会えるかわからない。
富森の目にはいつになく不安そうな光があった。
朝の光に輝く白玉山が窓から見えていても、彼はいつものように目を細めて眺めることもしなかった。
今朝の彼の意識は前原のことだけに占められていた。
……居てくれればいいのだが。
富森は祈るような気持を胸に、足早に廊下を進む。


「富森さん――!」
唐突に背後から声を掛けられて、富森の足はピタリとその場に止まった。
振り向くまでもない、前原の優しい声だ。
探していた本人に呼び止められて、富森はほっとしたように振り返った。
身軽に駆け寄ってきた前原のほんのりと上気した笑顔がまぶしくて、富森は目を細めた。
なんて嬉しそうに笑いかけてくれるのだろう……愛しさが富森の胸にこみ上げる。
「新京からいつお帰りでした?」
「昨夜遅くですよ。どうしたんですか、こんなに早く上陸して? あなたが経理事務室から出てくるのが見えたから、追いかけてきたんですよ。それより……」
前原は息を継いだ。
いつもはおっとりとした前原が、今朝は興奮気味の紅潮した頬をして弾んだ息のまま一方的に話しかけてくる。
「……ねえ、聞いてください! さっき司令官のところへいったら、私に異動の話があると。潜水艦に戻れそうなんです!」
前原は目を輝かせて、一気に話した。
生き生きとした前原の表情は、朝の日差しの中でひときわ明るかった。
富森は目を細めてほほえみながら、そんな彼を見守っていた。
「来月に内示が出るそうです。これでやっと潜れます……あなたと逢えなくなるのは辛いけど……」
前原は富森のほほえみの前に目を伏せた。
富森の微笑がいっそう深くなり、彼は静かに口を開いた。
「あなたが明るく笑うようになってくれるのが一番ですよ。……それに私も旅順を出ます」
「え?」
驚いて顔を上げた前原の瞳をしっかり捉えたまま、富森はゆっくりと言い聞かせるように言葉を続けた。
「あなたは出張なさっていたから、お聞きになってないのでしょう。天津居留民保護の要請があり《藤》が出動いたします」
前原の表情が凍りついた。
「いつ?」
「本日一六三○」
静かに出港時刻を告げる富森の声に、前原は言葉を失い呆然と富森の温顔をみつめる。
「あなたの顔を見ていけてよかった。それも飛び切りの笑顔を」
驚きに見開かれたままの前原の目に富森は穏やかにほほえみかける。
「あなたが潜水艦に戻られるのなら、私も安心して天津に行けます」
「……いやだ」
押し殺した声で前原が低くつぶやいた。
「いやです、そんな。なぜ昨夜、いや明け方だっていい、なぜ私に報せておいてくれなかったのです?」
低く抑えた声ながら前原は必死に言い募った。
「また無茶を言う……。急な決定で艦でも大慌てしています、私もすぐ戻らないといけません」
前原はいきなり殴られた人のような表情で、黙って富森を睨みつけた。
「さあ、もう一度笑って見せてください。あなたの笑顔を最後に見ておきたい」
富森はいつもの穏やかな笑みを浮かべていたが、その目だけは真剣に前原の表情にそそがれていた。
《藤》は今、旅順港内で艦の最終点検と積み込みを大急ぎでやっている。
出航当日のバタバタした《藤》を離れてまで、わざわざこうして司令部まで来たのは――もちろん所用もあったがそれは艦長の彼がわざわざ足を運ぶほどの用事でもなかった。
すべては口実、すべては私情――ひと目前原に会いたいがための上陸だった。


今度の出動は長くなりそうだった。
抗日運動は日ごと激しさを増し、天津にはまもなく戒厳令が出されるだろう。
富森の脳裏には前世の反日暴動と虐殺事件が浮かんでいた。
……このままでは前世の二の舞になる。
富森の目は前世の記憶に暗く沈んだ。
運命の日は刻々と迫る。
泥沼と化す日中戦争のきっかけとなる盧溝橋事件、あれは昭和十二年の七月。
そしてやがて始まる太平洋戦争……。
どこで開戦の日を迎えることになるか予測できないが、六年後のその日には、富森は駆逐隊司令として、前原は潜水艦艦長として、戦地へ死地へと赴くことになるだろう……。
……あなたも潜水艦に戻るのなら、今度あなたに逢えるのはいつになるだろうか? また逢うことがあるだろうか?
ひどく怒った顔をして、富森を睨みつけている青年。
そんな脆そうな瞳で見つめられると、辛い。
肩を抱き寄せて、前原の好むやり方で接吻してやりたかった。
その熱い肌、熱い血潮の流れるうなじにそっと触れて、静かに抱いていてやりたかった。
だが、そんな事をすればこのまま別れられなくなってしまう。


「もう行くんですか?」
「はい」
「今すぐに?」
「ええ」
やり場のない絶望と怒りに前原の瞳が不安定に揺れていた。
出航前のせわしなさは前原も十分承知している。
でも、でもあんまりだ……こんな唐突に別れを告げられても……!
「せめて桟橋までお送りします」
精一杯感情を抑えて前原は言った。
「いえ、ここでお別れしましょう」
富森は彼をさえぎるように手のひらを軽く上げた。
「いいえ、ついていきます。でないと、ここで抱きつきますよ」
前原の声はいつになく低く、思いつめた響きがあった。
脅迫じみた前原の言葉に、富森は眉をひそめた。
「そんな顔をしても、怖くありませんからね」
額を青澄ませて前原が睨みつけてくる。
怖いほどきらめくその瞳には、今にも感情が溢れ出しそうだった。
「では、大通りまで」
前原の瞳に負けて富森は譲歩した。