◆磯貝君涙する


磯貝参謀はへこんでいた……。
自分では一生懸命やっているつもりなのだが、周りからすればトロいらしい。
磯貝は日本武尊に来るまで自分がトロいなどとは考えたこともなかった。
今まで彼は順調にキャリアを積み重ねてきた。
海軍大学校を次席で卒業し、彼は将来を嘱望された航空参謀として意気揚々と旭日艦隊司令部にやってきた。
なのに――
何をやっても勝手が違う。
初めての参謀勤務、初めての実戦部隊で慣れないせいもあるが、何やかやと大小取り混ぜてのミスが続く。
……トロいんだろうか、俺って。
「トロい」と彼の仕事ぶりを叱責したのは、上司の原参謀長である。
「トロい」のほかに「愚図」とも言われた。
原参謀長の、あの整った美貌で冷たくそう言い放たれると、きつい言葉はナイフのように鋭く胸に突き刺さる。
しかもそのあと、おまえにはホトホト愛想も尽き果てた、と言わんばかりに不機嫌そうに黙りこまれるのが、磯貝には一番辛い。
当初は失敗にもめげず張り切っていた磯貝も、最近はめっきり暗い顔つきで引っ込み思案になっていた。

そんなある日、作戦室で開かれた幕僚会議での出来事である。
提出された立案事項のうち、磯貝にどうも納得のいかない項目がひとつあった。
いくら考えてもわからないので、磯貝は恐る恐るその項目への疑問を口にした。
「……そんなことは自分で考えろ」
原参謀長はちらっと磯貝に冷たい視線を投げつけると、あとは知らん顔で次の事案に移っていった。
磯貝の質問は宙に浮いたまま、何事もなかったように会議は淡々と進んでいく……。
磯貝は恥ずかしさで硬直したまま、その日はもう何も発言できなかった。
辛うじて重要事項を彼は機械的にノートに書き取っていたが、頭にはなにも入ってきていなかった。
(俺はそんな馬鹿な質問をしたんだろうか? でも、本当にわからない……俺ってそんなにバカ?)
カーッと熱くなった頭の中で、彼の思考はぐるぐると同じところを廻っていた。

やがて磯貝に長く長く感じられた会議がようやく終わった。
幕僚たちはどやどやと狭い部屋を出て行く。
磯貝はひとり離れてテーブルに残り、緩慢な動作でノートを片付けていた。
心底、参謀長に冷たくあしらわれたわけがわからない。
誰も何も言ってくれなかったことからすると、わけがわかっていないのは自分だけのようだ。
恥ずかしい。
情けない。
わからないことを重ねて質問する意欲も失って、磯貝の気持は鉛のように重く沈んでいた。

大石は作戦室の戸口に立ち、しょぼくれた顔でまだごそごそとしている磯貝の様子をちらりと振り返った。
(こいつはまた……半泣きみたいな顔をしよって)
ずれた質問を上司に冷たくあしらわれたぐらいで、そんなに落ち込むこともないだろうに。
せめて気にしていないぐらいを装って平然と部屋を出たらどうだと大石は眉をひそめる。
(そういう気の回らない鈍さというか女々しさが原をいらだたせているのになぁ)
大石からすれば磯貝のそういうところは朴訥に思えて可愛い部類に入るのだが、彼の頭の切れる参謀長には鬱陶しくてならないらしい。
(あまり俺が横から口出ししてはいかんのだがな)
そうは思ったが磯貝のあまりのしょぼくれぶりにほだされて、大石は戸口から引き返すと彼のそばに歩み寄った。
「……磯貝」
名を呼ばれてぼんやりと磯貝は顔を上げた。
声の主を見て磯貝はぎくんと姿勢を正した。
目の前には大石長官が温かい目をして立っていた。
「さっきの質問の答えはだな……」
大石は生徒に教え諭すようにして磯貝の質問に答えてやるのだった。

大石の懇切な筋道立った説明が、磯貝の疑問を根底から氷解させていった。
磯貝は大石の説明を聞くうちに、本当に自分が馬鹿な質問をしたことに気がついた。
恥ずかしさにカッカと熱くなった顔でうつむくと、磯貝は泣き出しそうな声をしぼりだした。
「長官、私は参謀として恥ずかしいです」
本当に半泣き顔になった磯貝が大石には純な子犬がしょげているように見える。
(なんとも可愛いやつだなぁ……たしかに参謀としてはちと鈍いが)
大石は慈父のような微笑を目の端に滲ませて、磯貝にゆっくりと言い聞かせた。
「なあ磯貝、俺はお前が恥ずかしいやつだとは思わんぞ。わからないことは訊けばいい。それからもっと勉強すりゃいい」
低く優しい、磯貝を包み込んでくれるような大石の暖かな声。
大石の情のこもった慰めに磯貝は目頭が熱くなった。
「……長官ッ……」
磯貝はあとは言葉にならず、溢れ出た涙をごしごしと軍服の紺の袖で乱暴に拭っている。
「馬鹿だな、泣くやつがあるか」
大石はこういった純朴青年が嫌いではない。
それどころかついつい保護欲を刺激されて、庇ってやりたくなってしまう。
今も男泣きしている磯貝が可愛くて肩に手を置いた……。

「まだここにいらしたんですか」
開け放したままのドアから原参謀長が声をかけた。
泣いている磯貝と、彼の肩に手をかけて優しく慰めてやっていたらしい大石長官――原は作戦室の入り口に立ち、冷ややかな目でふたりを見ていた。
「……重要暗号電文が届いております。解読をお願いいたします」
素っ気無く用件だけ言うと原は立ち去った。
(これは拙いところを見られたかな)
大石は苦笑いをすると磯貝の肩をポンと叩いた。
「さ、磯貝、顔を洗って来い。お前ももっと気を楽に持て。いいな?」
大石は立ち去る前に磯貝の目をしっかりと見て微笑んだ。
磯貝は大石の優しい言葉と表情に感激しながら、涙目で長官の後姿を見送った。