◆磯貝君涙する〜続き
原はくさっていた。
別に磯貝参謀が嫌いなわけではない。
部下いじめをしているつもりもない。
ただ磯貝のワンテンポずれた勘の鈍さが原の気に障るのだ。
最初は若い参謀でもあり不慣れなだけだろうと極力フォローしてきたつもりである。
しかし! どうやらトロいのは彼の生来のものだと原は覚らざるを得なかった。
……こいつはどうしようもない!
というのが原の正直な感想である。
話の飲み込みは悪いし、話を説明する段になっても要領を得ない。
一生懸命なのはわかるのだが、およそどんくさくてスマートをモットーとする海軍の風上にも置けぬやつなのである。
言われた仕事は仕上げてくるが、怜悧な原からすればどこかしら詰めが甘い。
手直しすべきところを親切に指摘してやると、おどおどとした目でビクつくのが癇に障る。
実生活でもどんくさいところがあり、食堂で汁物をひっくり返して隣の席にいた原の軍服と靴にハネをかけたことが二度もある。
そのとき以来、磯貝から出来るだけ離れて食事するようにしているが、そんなわけがあってのことで別に嫌がらせではない。
どうしてあんな男が旭日艦隊の航空参謀になれたのか不思議だった。
海軍大学校を次席で卒業しているから学科はできるのだろう。
磯貝はなにかと年長者に受けがいいのも得な話だ。
この日本武尊でもそうである。
大石は何かと磯貝に目をかけているし、この頃は富森までが
「参謀長、もう少し磯貝参謀に手加減なされてはいかがですか? 私などが口を挟むことではないのですが……」
などと遠慮しいしい言ってよこす。
(あなたたちが寄ってたかって甘やかすから、あいつはいつまでたってもしゃきっとしないんです!)
原はそう言いたかった。
実際、大石に
「長官は磯貝を甘やかしすぎですよ。あいつのためになりません!」
そう意見すると
「それはひょっとしてヤキモチか? 原君も可愛いな! わははは」
と、大石は嬉しそうに笑ったものである。
(…ったくなに考えてんだか!)
原は白皙の額に青筋を立てて長官室を退出した。
背後からはまだ大石のわはは笑いが聞こえてくる。
(長官の頭の回路がいったいどうなっているのか見たいもんだ!)
原はこめかみを押さえると怒りに任せて大股でずんずん通路を歩いていった。
たしかに前をよく見ずカッカして大股歩きをしていた原も悪い。
しかしもっと悪いのは、重い本を前もよく見えないほど積み重ねて、ヨタヨタ歩いていた磯貝のほうである。
ふたりは作戦室の前の曲がり角で正面衝突をしてしまったのである。
原に勢いよくぶつかられて磯貝はバランスを崩して廊下にしりもちをついた。
原は顔を抑えて通路にうずくまっている。
硬い大型本の角が目の下を直撃したのだ。
磯貝は数秒間呆然としていた。
……いったい何が起こったんだ?
通路に将校が顔を抑えてうずくまっている。
金の参謀飾緒が目に入る。
太く並んだ袖の線。
原参謀長でしかない。
……うわぁぁぁぁ! 参謀長だぁぁぁ!
思わず磯貝は泰西画伯ムンクの名画のポーズをとりたくなった。
(どうして、なんでまた、よりによってあの人なんだ)
「うう磯貝、貴様か……」
原は呻きながら痛まないほうの目で磯貝を睨んだ。
「す、すみません、参謀長……」
通路に散乱した本を踏まないように跨ぎながら磯貝が原に近寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
そばに来て覗き込む磯貝を原は邪険に押しのけた。
(大丈夫なわけないだろう! いらいらするからあっちへ行ってくれ!)
「俺はいいから本を片付けろ。通行の邪魔だ」
大人気ない言葉のほうはぐっと飲み込んで、痛みをこらえた冷静な声で原は指示した。
野次馬が何事かと集まりだした。
床を這って本を拾い集めている磯貝に手を貸す者もいた。
「すまんが全部作戦室に運んでくれ」
磯貝は手伝ってくれた兵に本の運搬を頼んだ。
(そうやって最初から手伝いを頼んでいたらこんなことにならなかったんだ)
原は舌打ちしたい気分でそろそろと立ち上がった。
顔の半分がずきずきと痛む。
「参謀長、目でありますか?」
心配そうに磯貝が原の様子を伺う。
「いや眼球は外れた」
「すみません、ちょっと見せてください」
磯貝は原の肩に手をかけて彼の顔を覗き込む。
純真そうな澄んだ目が原の顔面を心配そうに仔細に観察している。
(こいつ……)
今度は磯貝を邪険に押しやる気にはなれなかった。
「はぁ……」
磯貝はため息をついて原から離れた。
「目は大丈夫そうですけど、お顔がずいぶん腫れてます……なにか冷やすものを医務室で貰ってきます!」
駆け出そうとした磯貝を原が止めた。
「バカ、お前が行くことはないだろ。おい! 誰か医務室まで行ってこい」
原は野次馬のひとりに命じると、あとは持ち場に戻れ! と一喝した。
「まったく、どいつも……」
原は腹立たしそうにつぶやいた。
「とにかく作戦室にでも」
「バカ、ひとりで歩ける!」
体を支えようとした磯貝の手を原は振り払った。
バカと言われようが邪険にされようが、磯貝は原の怪我の心配で頭が一杯なのだろう、気を悪くした様子はまるで無かった。
「申し訳ありませんッ、私の不注意でお怪我をさせてしまいまして」
作戦室の椅子にかけた原に磯貝が深々と頭を下げた。
「いや、俺も前を見ていなかったんだ」
原が素っ気無く言う。
しかしいつものようなトゲがその声には感じられなかった。
あれ? という顔を磯貝がする。
机の上に山のように積み重ねられた本の背表紙を指でなぞりながら原は訊いた。
「こんなにたくさんの本で何を調べるつもりだったんだ?」
「はっ、自分なりに次の作戦を立ててみようと思いまして」
磯貝が直立不動で答える。
「ふうん」
気のない返事をして原は眉を少し上げた。
(本の選び方がなっていない。これじゃ手当たり次第だ。本の内容を把握して必要な本だけに絞ればいいのに、山ほど持ち出して)
そう思ったが口には出さず
「ま、殊勝な心がけだと褒めておこう」
そう言っておいた。
「ありがとうございますッ」
磯貝はうれしげに顔を紅潮させた。
(なんだ、単純なやつだなぁ)
磯貝には悪気というものがまるでない。
どんくさいだけでいたって実直な可愛げのある男なのである。
(俺が我慢していくしかないのかなぁ……)
原に褒められたのがよほどうれしかったのか、目をウルウルさせて喜んでいる磯貝を見て原は複雑な心境になった。