◆買出し

短い夏が終わって、イーサ泊地はめっきり肌寒くなってきた。
極北の太陽は精一杯の陽光を日本武尊の広い甲板に投げかけて、磨き抜かれたチーク板をほんのりと温めていた。
「磯貝さん」
磯貝がぼんやり甲板のデッキチェアに腰を下ろして日向ぼっこしていると、背後から声を掛けてきた男がいる。
ひょいと磯貝は振り返り、声の主を認めてにっこりと笑った。
「やあ、主計長。いいお天気ですねぇ」
「非番ですか?」
「はい」
「お暇ならどうです? これから町に食料品の買い付けに行くんですが、ご一緒に」
すっかり私服に着替えた主計長が好意に満ちた笑顔を浮かべて、のんきそうな航空参謀の顔を覗き込んだ。
「へぇ、買い付けか、おもしろそうだなぁ。でもいいんですか、部外者の私なんかがついて行っても」
「車を出してもらうんですから手間は一緒ですよ」
「じゃお言葉に甘えて同行させていただきます! あ、そうだ、もうひとり連れて行ってもよろしいですか?」
「え? そりゃ構いませんが」
「じゃ、すぐ連れて来ますからちょっと待っていてください」
そう言い置いて、磯貝はデッキチェアから立ち上がると駆け足で艦内に消えた。

「失礼します!」
返事も聞かずに磯貝は参謀長室のドアを勢いよく開けた。
いつものように執務机で書類を作成していた原が、咎めるように磯貝の顔をじろりと見た。
「また書類いじりなんかして!」
原の顔色など気に留めず、磯貝はつかつかと机に近づいた。
「俺の仕事だ、文句あるか」
眉を吊り上げて原は彼の部下を睨みつけたが
「でも休養日じゃありませんか。せっかくのお休みを仕事で潰さなくても」
そんなことを言いながら、磯貝はニコニコと小首を傾げて机の上に整然と積み重ねられた書類の山に目をやった。
……誰のせいで休みの日にまで仕事をしていると思ってんだ!
そう嫌味の一つも言いたくなったが、磯貝の晴ればれとした快活な表情に原は言葉を飲み込んだ。
「なんだ、ばかに愉快そうじゃないか?」
「主計長が買い物に町に出るんですよ。車を出すから同行してもいいと」
「買い物?」
「食料品の買い付けですよ。面白そうじゃありませんか!」
「ふうん……で、それと俺がどう関係ある?」
「一緒に行きましょうよ!」
「……断る」
「そう言わずにお休みなんだから! もう主計長には頼んできたんです、さ、用意してください!」
磯貝は書類に手を伸ばすと、パタパタと勝手に仕舞いだした。
「なんだ、なにをする、俺は行かないと言ってるだろ!」
「夕食までには余裕で帰ってこれますよ、それにこんないい天気なんですから。おーい従兵! 参謀長のコートを用意してくれ、参謀長は夕方まで外出される」
「おい待て」
目の前で書類は片付けられてしまい、従兵もすばやくコートを取りに走り出てしまった。
こうなれば先手を取られた原の負けである。
これぞ大石直伝の原参謀長操縦術――機先を制して引きずり回せ!
出撃以来もう四年、磯貝も成長したものである。

軍用トラックとジープが一台、イーサ泊地の桟橋に横付けされている。
出発準備を終えてジープの側で磯貝を待っていた主計長は、彼が原を連れてきたのを見て目を丸くした。
……誰を連れてくるかと思ったら! 名うての気むずかし屋の参謀長じゃないか!
意外な同行者に主計長は少々戸惑いながらも、空けておいたジープの後部座席に原と磯貝を座らせて、自分は助手席に乗り込んだ。
「それじゃ行きましょうか!」
主計長は窓から片手を出してトラックに出発の合図を送り、買出し部隊はイーサ泊地を後にした。
車が走り出しても、原は憮然とした表情で押し黙っている。
磯貝に無理やり引っ張られてジープに乗せられたことが、彼にしてみればやっぱり面白くない。
一方磯貝は車外の景色を遠足の小学生のように嬉々として眺めている。
トラックとジープは力強いエンジンの音を響かせて、フィヨルドの坂をぐんぐんと上っていった。
見る間に日本武尊は谷間に隠れて、視界から消えてしまった。
日本武尊の停泊しているイーサ泊地は、イーサフィヨルズの町からひとつ岬を挟んだ深い入り江にある。
地図の上ではすぐ隣のイーサの町に陸路で行くには、入り組んだ海岸線に沿ってくねくねと走らなくてはならない。
車は左に右に忙しくハンドルを切り、乗員はそのたびに激しく揺すられていた。
道は当然未舗装で、道幅を広げたときに出た荒い砕石がごろごろとそのまま路面に敷かれている。
砕石の砂利道はタイヤが横滑りしやすく、とりわけカーブでのブレーキングが難しい。
フィヨルドの急カーブをジープがタイヤを軋らせながら曲がったとき、はずみで傾いた磯貝の重い身体がズズッと原にのしかかった。
「おっと、すみません」
謝る磯貝を、迷惑そうに原が顔をしかめて押し返した。
と、道は反対に曲がって、今度は原の身体が磯貝のほうにギュウと押し付けられた。
「う……」
元の位置に戻ろうと慣性の法則に必死で抵抗する原に、斜めになった磯貝が慰め顔で声をかけた。
「お互い様ですからいいですよ」
「俺が嫌なんだ」
「んなこといってもカーブなんだから」
原は答えず、激しく揺れるジープの中で、体勢を立て直そうと必死に頑張っている。
「そんな無理して慣性に逆らっていると、酔っちゃいますよ」
「ばか、船乗りが車酔いしてたまるか」
……このまえ北極海で低気圧にぶつかったとき、夕食の席に出てこなかったのはどなたでしたっけね。
胸の内でそう呟いておいて、磯貝は小首を傾げてみせた。
「まあご無理なされず」
「ふん! ……おおっと」
車内がまた大きく揺れて、原は横滑りして磯貝の膝の上に乗ってしまった。
「ちょっ……どけて下さいよ」
「わ、わかってる!」
「いや、お尻はいいんですけどね、靴です。足を踏まないで下さいよ」
そんな磯貝の冷静な声に
「ああ、足か」
思いきり踏みつけていた足を浮かせると、よけいにバランスが取れなくなって、原は全体重を磯貝にかけてしまった。
「むぐぐぅ……!」
さすがに押しつぶされて磯貝が苦しそうに呻く。
「わざとじゃない!」
腹立たしそうにそう言い捨てると、原は両手両足を必死に踏ん張って、やっとのことで元の座席に戻った。
何とか座りなおすと、原は運転席に向かって苦情を言った。
「おい、ずいぶん乱暴な運転だな!」
「申し訳ありません、なにぶんこんな道で」
主計長が首だけ捻じ曲げて一応詫びてみせた。
だが一部始終をバックミラーで見ていたらしく、口元が笑っていた。

フィヨルドのつづら折りを抜けると、道は一気に海岸部へ下りる。
切り立った崖に抱かれて、イーサフィヨルズの湾内は藍色の鏡面のように平らかだった。
イーサフィヨルズの町は西部フィヨルド地方で最も大きい。
もっとも大きいといっても、人口は二千ちょっとにすぎない。
衝立のような断崖にへばりつく細長い平地とS字になった砂洲の上に、町は形作られていた。
漁港と港湾施設を中心にして、ぽつりぽつりとカラフルな家がてんでバラバラに建っている。
藍色、白、灰色だけだった景色が、人工物の色どりで急ににぎやかになった。

小さな町がほどよく活気づいている。
市に集まった人たちは、知り合いを見つけては陽気に挨拶を交わし合っていた。
買出し一行も適当な空き地に車を置いて、さっそく市の賑わいに参加する。
「……潜輸が到着するまでの一時しのぎですよ。いやまだ保存食はあるんですけどね、なんか目新しい食材がないかと思いまして。なんといっても乗組員の一番の楽しみといえば、食事なわけですし」
日本武尊の乗組員数は四千人。
つまり日本武尊だけでこの町の人口の二倍の乗組員を抱えている。
もし彼らの食糧を現地調達ですべて賄おうとすれば、イーサフィヨルズの市民が飢えてしまうことになるので、数万人の駐留軍からなるレイキャビクの米軍同様、旭日艦隊も本国からの補給を受けている。
だが、補給を受けていても、どうしても生鮮食料品は不足しがちになる。
そこで艦隊ごと艦ごとの現地購入も、多少は認められているというわけだ。
日本武尊の主計長はメニュー開拓に意欲的な人物で、現地の特産品を仕入れては目先の変わった食事を将兵に提供してたいそう喜ばれている。
名物「激辛カレー」をはじめとして、日本武尊のメシはちょっと変わっていてしかも美味い、と旭日艦隊内でも評判なのだ。
「アイスランドには魚しかないと聞いていたが」
原の疑問に主計長は、いやいや今はそんなことないですよ、と笑って首を振ってみせた。
「ちゃんと野菜も出回っていますよ、温室物が」
「高いんじゃないか?」
「ええ、決して安くはないですけどね。でも物によっては外国から輸入するより安くつきますよ。この国じゃ電力と水はほぼタダですから」
主計長はニコニコと話しながらも、左右に目を配って市場の商品と値札のチェックに余念がない。
「おお、ジャガイモ、こいつは外せません」
ジャガイモはアイスランドで自給できる数少ない農産物の一つだ。
主計長に目配せされて、若い主計中尉がさっそく英語で仕入れの交渉を始めた。
「それとタラ。お、干物もたくさんあるな……! これから直接納められないか、ちょいと交渉してみましょう」
主計長が船主らしき男と商談を始めたのを横目に見ながら、原と磯貝は漁港から運ばれたばかりの魚かごをのぞいて回った。
深海魚らしい赤い魚やオタマジャクシに似た黒い魚――名前の見当もつかない魚ばかりで珍しい。
「タラはわかるんですけどね」
かごいっぱいに積まれた茶色い背をした魚を指差して、磯貝が首をひねる。
「でもやけに大きいな、日本のタラとはかなり違う」
原も首をひねりながら魚を観察している。
「これ、アトランティック・コッドというそうですよ……ほんと大きいですね」
「なるほど日本のタラはパシフィック・コッドというわけか」
ちょろりと下あごにヒゲを生やした魚の顔を見ながら、原がふうんと頷いてみせた。
その向こうではどうやら話がついたのだろう、それまで熱心に話し込んでいた主計長と船主が笑いながら握手して互いの肩をバンバン叩きあいだした。
「……うまくいきました。これで当分タラに不自由しませんよ」
商談をまとめ上げてえびす顔で戻ってきた主計長の言葉に、原はうんざりしたように言い返した。
「日本武尊じゃこのごろタラばかりじゃないか。タラの煮付け、タラのソテー、タラの味噌汁。金曜のカレーにまでタラの切り身が入っていた」
「シーフードカレーは毎回好評なんですけどね、スパイシーで」
「なんでもカレーにすればいいってもんじゃないだろ」
原の指摘にも、主計長はひょいと肩をすくめてみせただけだった。
「若いモンはとにかくカレーが好きなんですよ。ま、司令部は年寄りばかりだからカレーより鍋仕立てのほうがよろしいですかねぇ」
主計長の年寄りという言葉に原はちょっとへこんだ顔つきになった。