◆罫紙(けいし)*


時刻は午前五時をだいぶ回った頃――露天甲板では甲板掃除がはじまったぐらいの時刻だろうか。
長官、参謀長の公室・私室のある上甲板右舷はしんとして、人っ子ひとり歩いていなかった。
すっと参謀長私室のドアが開き、寝不足のせいでいささか腫れぼったい目をした原が通路に姿を現した。
原は昨夜、消灯時間を二時間過ぎてからようやくベッドに入ったのだが、よく眠れなかったので徹夜明けに近い状態だった。
このところ、司令部内の仕事の能率が目に見えて落ちてきている。
原が毎日睡眠時間を削って残業しても限度がある。
原因は――
原の目が暗く沈んだ。
……能無しでグズなあの先任参謀をなんとかしないと、もうどうにもやっていけない!
疲れきって苛立ったままの神経が原を長官室へ向かわせていた。
……もう我慢ならない! 今日こそはっきり長官に言おう。
司令部の業務に支障が出ています、もう私には余力がありません、このまま先任参謀のために私が倒れてもいいとおっしゃるなら――
いや、そんな情けないことは俺は口には出せん。
感情を一切交えず、現状だけをはっきりと告げればいいだけだ。
原は呼吸を整え、長官室のドアの前に立った。
……言うだけ言ってみよう。このままでは俺はほんとに倒れてしまう。



「失礼します――」
軽いノックの後、ドアを開けて思いつめた顔をした原が長官室に入ってきた。
「ああ、おはよう」
大石が書類から顔を上げ、快活な笑顔を彼に向けた。
まだ朝食前の早い時間だというのに、大石はもう執務机の前に座りなにやら書類をいじっていた。
開け放たれた丸い舷窓から、朝の光が斜めにまぶしく差しこんでいる。
朝の光の中に浮かぶ白いワイシャツの大石に、原は少したじろいだ。
軍服の上着を取っただけなのに、原にはくつろいだワイシャツ姿の大石の笑顔が、なぜかまばゆく感じられた。
原は朝日が眩しいようなふりをして目を細め、ことさらに表情を硬くした。
「どうした? やけに早いじゃないか。なにか問題か?」
頑(かたくな)な表情を崩さない彼の参謀長に大石は優しく声を掛けた。
緊急の用でないことは部屋に入ってきたときの彼の歩き方でわかっている。
何か気がかりな公用を抱えていると、いつもよりせかせかと歩く癖が原にはある。
ところが今朝の原は、ゆっくりとためらうように部屋に入ってきた……。
つまり、緊急の用事ではない……そう読んで大石はのんびりと机の上に肘をつくと、原の答えを待った。
「いえ、たいした用ではありません……」
原は大石の笑顔に言いよどんだ。
まさか大石が朝から仕事をしているとは思わなかったのだ。
「……それより長官、どうなさったのですか、執務時間前にそんな」
書類なんか前にして、そう原は続きの言葉を視線で示した。
原の視線の先の書類の山に大石も目をやる。
「これか? ふふ、考課表だよ。ぼちぼち日本に送らんとな」
頬づえをついて、大石がにんまりと笑う。
副官に頼むから期限を守ってくれと泣きつかれて、大石もついに重い腰を上げたというわけなのだ。
こればかりはいくらいいかげんな大石でも、君が代わりに書いといてくれ、といつものように丸投げできる代物ではない。
「ああ。もうそんな時期ですか」
原は納得した。
「なにせ戦場だ。先送りにしてもらっていたが、もういくらなんでもな」
「そうでしたか」
「で、なんだ? 君の用は」
書きかけの書類をトントンと机の上で軽く揃えると、大石はそれを乱雑な書類の山の上にバサッと乗せた。
「いえ、本当にたいした用では。また空いたお時間にでも」
「なに遠慮している? こんな朝早くにやってきておいて。これならもうほとんど片付いている、気にするな――」
大石は言いながら気軽く腰を上げた。
「さ、コーヒーでも淹れよう。朝食前だが平気だな?」



大石が椅子を引いて立ち上がった拍子に、放置されたままだった小さなゴム印がコロコロと転がって机の端から落ちそうになった。
「!」
とっさに原はゴム印を手に受けようと腕を伸ばした。
その原の肘が机の上の書類ケースに軽く触れ、ケースのふちにこれまた不安定に置かれただけだった書類の山が、ざーっと傾き床に流れ出し――そこへ折悪く舷窓から一陣の突風が吹きこんだ。
薄いぺらぺらした罫紙が突風に煽られて、俄かに命を得たように部屋中を舞いはじめた。
白い紙が何十枚もいっせいに、ひらひらと、ばさばさと、勝手気ままに舞い狂う。
大石と原は一瞬その光景に息をのんで見とれてしまった。
――先に我に帰ったのは大石だった。
「窓を閉めてくれ!」
「はっ!」
慌てて原が舷窓に駆け寄り、バタンバタンと真鍮の窓枠を閉めて回る。
罫紙はまだじゅうたんの上をひらひらと舞っている。
大石がそれを追う。
原が最後の舷窓を閉じたとたん、まるで魔法が解けたかのように罫紙は舞うのをやめ、おのおのゆっくりとじゅうたんの上に静止した。
舷窓が閉められた室内には、灰色のじゅうたんを覆いつくすように白い紙が一面に散らばっていた。
「やれやれ、とんでもない風だ」
ほっと大石が息をつく。
「外に飛ばなくてよかったですよ」
原も胸を撫で下ろす。
「なんだ、君としたことが――驚いたじゃないか」
乱雑にしていた机のことを棚に上げて、大石が原のせいにする。
「申し訳ありません」
「しかしまた、派手に散らしたなぁ」
「とりあえず、かたづけないと」
「そうだな、コーヒーどころではなくなった」
短く笑うと大石は手近なところから紙を拾い出した。
「申し訳ありません」
原も踏まないように気をつけながら、手早く紙を拾い集める。
「何も責めてはおらんよ。ただ、君がこんなヘマをするのが珍しくってな」
「咄嗟に上手く身体が動きませんで」
「どこか調子が悪いのか?」
「いいえ、別に。ただ起き抜けでしたから」
「低血圧か? 原君は」
「そういうわけでもないんですが……昔から朝はどちらかというと苦手です」
「ふうん、たしかに眠そうな顔をしているな」
彼の肩を気軽くつかんで、微笑みながら顔を覗きこむ大石に、原は息苦しそうに顔をそむけた。
「……さっさと拾わないと朝食に遅れますよ」
「うむ……。整頓はあとにして、とりあえずひとまとめにするか?」
「いや、なくなっている書類がないか、確認するほうが先でしょう。モノがモノですからね」
「それもそうだ。面倒だがきちんと揃えなおすか」



原と大石は拾い集めた罫紙を抱えて、じゅうたんの上に座り込んだ。
これから枚数を点検していかなければならない。
原はそのうちの一枚を表返したとたん、意外そうな声を上げた。
「やけに枚数が多いと思ったら、他の用紙が混ざってますよ……なんですかこれは、おとついお持ちした原稿じゃないですか! どうして一緒くたにしとくんです!」
「すまん、つい上に乗せておいたんだ」
「こっちはなんです……? 奉職履歴の写しじゃないですか! なんだってこんなものがここにあるんです?」
「すまん、処分を忘れていた」
「いいかげんな……!」
あまりのルーズさに呆然として、原はまじまじと大石の顔を見た。
「よくまあ、いままで問題が起きなかったものですね!」
「いやまあ……なんとかやってるさ」
いっこうに悪びれない大石に、原もそれ以上何も言えず力なく首を振るしかなかった。
……万事こうなんだから、長官は。でもたしかに何とかなってるよな……副官や俺がその分大変なだけで……。