◆NAKED EYES


重厚な石造りの旅順要港部庁舎。
廊下を行きかう職員の足音がコツコツと高い天井に反響する。
庁舎の廊下の窓は開け放たれて、五月はじめの爽やかな風がすいすいと心地よく通っていく。
駆逐艦「藤」艦長富森少佐は司令部での所用を終え、艦に戻ろうとしていた。
庁舎の中庭に植えられた木々の若葉がさわさわと風に揺れている。
……ずいぶん緑が濃くなった。
窓から見える初夏の景色に彼は目を細めた。
「……見つけた」
富森の背後から低い優しい声がした。
富森の足が止まった。
「ご苦労様です、富森艦長」
つい、と前原が富森の横に並ぶ。
「やあ……」
少し驚いた表情で富森は応じた。
近寄る気配を気取らせないのは、前原の不思議な特技だ。
まるで猫のように足音を立てずに人の背後に忍び寄る。
「もう艦にお戻りになるのですか?」
前原は目の端で笑いかける。
ぞくりとするような前原の流し目に富森は唇をムッと強く引き結んだ。
「……そうです」
そっけなくそう答えると、富森は前方を注視したまま再び廊下を歩き出した。
こういう堅苦しい表情や物言いをするときは、富森が照れているときだということを前原は承知していた。
前原は嬉しげな笑顔で富森を見つめる。
あのいつも落ち着きはらった富森が前原を意識してひどく照れている……。
もはや平然として前原の顔を見られない理由が富森にはあった。
……この前ふたりが逢ったときに、ふたりは深い関係へと進んでいたのである。


「えらくお急ぎなんですね」
「……ええ」
「このままどこにも寄らずに?」
「……はい」
気まずそうに言葉少なに富森は答えた。
肌を合わせて愛し合った相手と、あれからはじめて顔を合わせたのだ。
気恥ずかしさが彼の受け答えをぎこちなくさせていた。
「時間は取らせませんよ」
前原は富森の腕をとると、一室のドアを押した。
そこは経理事務を執る主計科給与室に隣接する「倉庫」と呼ばれる書類置き場だった。
「倉庫」といっても普通の書類棚が並ぶだけの部屋である。
締め切られた無人の室内は、やや埃くさく空気はひんやりと冷たい。
天井近くの高い明かり窓から柔らかな光が降り注いでいる。
富森の背を押すようにして室内に入ると、前原は静かにドアを閉ざした。
部屋には「証憑書類」「決算書類」そんな項目を記した書類棚がずらりと並ぶ。
書類棚の間を縫い、一番奥まった部屋の隅に前原は富森を導いた。
そして書類棚の横の白い漆喰の壁に富森を押し付けた。
無言のままの富森の顔が一段と渋くなった。
……こんなところでふたりきりになるのは。
ただでさえ、前原と視線を合わせるのが気恥ずかしくてならないのに。
「ふふ、なにもとって食おうというわけじゃありませんよ」
照れと羞恥の入り混じった富森の表情に、前原は悪戯っぽく微笑みかけた。
「ひどいなあ富森さん。私に逢わずに帰るつもりだったんですね」
「時間がなかったので……それに勤務中です」
「顔ぐらい見せてくれてもいいでしょう? 薄情だなあ」
軽く怨じてみせて前原は半歩、富森に近づく。
前原は人差し指で富森の唇に軽く触れた。
そしてついでに彼の細長いひげをからかうように撥ね上げる。
自分の唇に触れる前原の指に富森は緊張した。
前原の次の行動を予期して、富森はうっすらと赤くなった。
彼を見つめる前原の蒼い瞳にも照れたような含羞の色がちらりとよぎった。
見つめあうふたりの間に、照れと妖しい期待の入り混じる空気が、ふんわりと甘く漂う。
「……今日はキスだけで勘弁してあげますよ」
照れから開き直るように前原が宣言した。
北窓からの柔らかな光線が白い漆喰に反射して、室内は陰影までもが優しく淡い。
白い光線に溶けてしまいそうな前原の優しい蒼い瞳が富森の顔に近づけられた。
ふっと富森の目に微笑みかけると前原は目を閉じた。
微笑んだままの前原の唇がゆっくりと富森の唇に押し当てられる。
優しい、柔らかな、キス。
緊張している富森を油断させるための、最初だけは慎ましいキス。
前原はそっと顔を傾けて、触れ合っているだけの唇を彼の唇とほんの少し交差させた。
そしてわずかに唇を開けて、彼の唇を軽く押す……。


前原の唇が触れる瞬間、富森はいつもぞくりとしてしまう。
熱くて柔らかく、最初は遠慮がちに触れてくるだけなのにひどく官能的な前原の唇。
唇は微かに動いて、富森の唇を軽く挟む。
無防備なようで誘うような、内気なようで狡猾なキス。
誘い込まれると理性を奪われかねない魔性のくちづけ。
「……よしなさい、こんな場所で」
富森は辛うじて踏みとどまり、すっと横を向いて小声で制止した。
「こんな場所だからキスだけで我慢すると言ってるのに……」
前原が妖しく声をたてずに笑った。
(往生際の悪い……すぐ逃げようとするんだ、あなたは)
「なんでしたら、どこへでも行きますよ。あなたのご都合のよろしい場所へ……」
「本当に時間がないんです、さっさと船に戻らないと」
顔を赤くしたまま富森は目線を合わせずに言い訳をする。
「だったらおとなしくしてください。こうしていても時間がなくなるでしょう?」
前原は両手で富森の顔を自分のほうに向き直らせた。
「ほんとにつれないな、あなたは……」
不意に前原は瞳を澄ませると、富森を真っ直ぐに見つめた。
(……まさか本気で避けてるんじゃないでしょうね……?)
不安と情熱がせめぎあう切なげな瞳の色。
前原の心をそのまま映し出す瞳に富森は動揺した。
前原はそれ以上何も言わずに唇を重ねた。


明かり窓から柔らかな光が降り注ぎ、固く抱き合った二人の姿を浮かび上がらせていた。
白い壁からの反射のせいで紺の冬服の色が黒く濃く見える。
富森は唇を離した。
前原は閉じていた目を開けて富森の表情を窺う。
その不安げな瞳の色に抗えず、富森は再び唇を寄せてやった。
前原の表情、ため息……どんなことでも富森は気に掛かる。
彼が何を考えているのか、楽しいのか悲しいのか。
前原もまた目を閉じる。
かすかに眉を寄せた甘い表情で。


いつまでも続けていられそうなキスに富森が終止符を打った。
前原を離し、抱擁の腕を解く。
前原が不満げに彼を見つめた。
そんな前原を彼はそっと押しやった。
「……今日は時間がないのは本当です……またゆっくり逢えるのですから」
柔らかな物言いをする富森の目を前原はじっと見つめた。
富森の穏やかな目には恋ゆえの焦燥も煩悶も感じられない。
誠実で情味はあるが……これが恋をしている目であろうか?
「こうして捕まえないと逢いにも来てくれないなんて……やっぱり薄情だ、あなたは」
自分と富森の恋の温度差を思って前原はため息をついた。
「手厳しいですな」
富森は穏やかに言葉を返す。
……あなたのペースに巻き込まれたら大火傷をします。
前原の直情的な裸の瞳がどんなに妖しく自分の心をかき乱しているか……前原は気がついているのだろうか?
富森は少し拗ねたような顔つきの前原を見て静かに微笑んだ。


「次の上陸日はあさってでしたね?」
(あさってまた逢えるんだから……)
そう気を取り直して前原はドアのノブに手をかけた。
「ええ、そうです」
「素敵なキスでしたよ、富森さん」
ふわり、と綺麗な顔で富森に笑いかけると、前原はドアを開けた。
さぁーっと五月の風が吹き込んできて、埃くさい部屋の空気をかき回していった。