◆旅順(七)
前原は窓を押し開けた。
初夏の心地よい風がカーテンを揺らす。
前原は目を細めて、西日を受けて黄色く輝く旅順の街を見渡した。
どこかで鳩が鳴いている。
ぼんやりとその抑揚のある鳴声を聞きながら、前原は窓辺に立っていた。
富森は入浴中だった。
風呂が船乗りにとって何よりの贅沢というのは、つい半年前までは潜水艦に乗っていた前原にはよく理解できる。
(それにしても富森さんは風呂好きだ)
広い風呂なら富森と一緒に湯舟に浸かれるのに、と前原は考えて微笑んだ。
(どんな顔をするかな。一緒に風呂に入ろうと言ったりしたら)
彼のことだ。
赤くなって拒否するだろう。
(いつかそんな機会があればなぁ)
富森を困らすのが前原の楽しみでもある。
(もっと困って、俺のことだけを考えてくれたら……)
気遣いの深い富森にあれこれと心配してもらうのは快かった。
しかし、掴めそうで捕らえきれない富森の心……。
どこか遠くを見ているような、計り知れない彼の視線。
(たぶん、彼も前世からの転生者だ。何者だろう……どうも思いつかない。会ったことのあるような……そんな気もするが)
二〇三高地で彼に生まれ変わりについて尋ねたときのことを彼は思い返す。
……いいえ。人生は一度きりです。やり直しは効かないと思いますよ……。
富森の答えには何か含みがありそうだった。
しかし重ねて訊いても彼は返答を避けるだろう。
彼の心の奥には、前原でも容易に踏み込めない何かがある。
穏やかで情深い彼の心の奥底には、何か怖いものが潜んでいるような気がする。
何かの拍子に見せた富森の表情に、別人のような冷ややかさを感じて前原はぞくりと背筋が寒くなったことがある……。
西日がだんだんとその日影を移していく。
やがて浴室のドアが開き、バスタオルを腰に巻いただけの富森が部屋に現れた。
「あっ!」
前原を見て、富森が驚きの声を上げた。
「やあ、相変わらずの長風呂ですね」
驚きのあまり、その場に立ちすくんでしまった富森に彼はにっこりと笑いかけた。
「鍵ですか? フロントで頼むと、すんなり合鍵を渡してくれましたよ」
宿の主人はにんまりと笑って前原に鍵を渡してくれた。
何度か富森と同じ日に投宿しているこの綺麗な青年が、どうやら富森の愛人だと察したのだろう。
「うむむ」
富森は思わず唸った。
前原のこういうところが、富森には理解できない。
人の目を気にしないというか、あっけらかんとしているというか。
「そうそう、私もこの部屋に泊まると断りを入れておきましたから。使いもしないのにもう一つ部屋を取ることもないですからね」
平然と前原は言葉を続ける。
「むむぅ」
富森は頭を抱えたくなった。
……それでは私と同衾すると宣言したのも同然だ……前原さんはいったいどういう神経をしているのだろう。
ショックを受けて唸っている富森の様子に構わず、前原はすうっとそばに寄る。
「んん……逢いたかった……」
笑顔で富森に抱きつくと彼は早速キスを仕掛けてきた。
「む……」
富森は呆然としながらも抱きつく前原を受けとめて、そのままキスにも応えてしまう……富森も前原に逢いたかったことにかわりはないのだ……。
来るだろうとは思っていたが、こんなに早い時間に押しかけてくるとは油断だった。
富森は日課の都合でいつもより早い時間に上陸できたが、陸上勤務の前原がこんな時間に現れるとは思いもしてなかった。
……何か理由をつけて早退でもしてきたのだろうか? 本当にしようのない人だ。
そう思ったが、裸も同然の姿ではのっけから富森の分が悪い。
「ま、待ってください、いま服を着ますから」
本格的な抱擁とキスに移ろうとした前原を彼は慌てて押しとどめる。
「なに言ってるんです、どうせ脱いでもらうんだし」
「いやしかし」
渋る富森。
「立ったままでいいんですか? ふふ、それもまた……」
前原は悪戯っぽく笑って、そのまま富森を浴室のドアに押し付けると彼の喉元にくちづけた。
「ちょ、ちょっと前原さん」
「うるさいなぁ」
綺麗な顔をしかめると、彼はうむを言わせず富森の口をキスで塞いでしまった。
「ん……」
こうなるともう前原のペースである。
はらり、と富森のバスタオルが床に落とされた。
もちろん前原の仕業である……。
その夜遅く。
夜風が開け放した窓から部屋にそよそよと吹き込んでいた。
五月とはいえ、旅順の夜はまだ冷える。
「窓を閉めましょうか?」
富森は隣で目を覚ましたらしい前原に声をかけた。
「……いいえ。私は平気です」
少しぼんやりした前原の声が答える。
(では窓はそのままにしておくか)
富森は少し肌寒く感じていた。
なんといっても何も身に着けていない。
富森はベッドから床に手を伸ばして脱ぎ捨てられたアンダーシャツを拾い上げた。
「……まだ」
シャツを着ようとした富森の背に前原が触れた。
「まだ?」
富森が聞き返した。
「ええ。まだ服は着ないで」
前原はそのまま腕を富森の身体に回した。
「寒いんですか? もう一枚の毛布は、と」
前原が足で毛布を探る。
「あなたが途中、蹴飛ばして床に落としたような気がするんですが」
そう遠慮がちに富森が指摘する。
「え? 私は夢中で何も憶えてないのに、ひどいなあ」
前原は含み笑いをして富森をシーツの上に引き戻すと、じゃれつくように手足を絡めた。
富森は大人しく彼のなすがままになっている。
前原は富森をシーツに押し倒してのしかかった。
「ひどいなあ……私の半分でもいいから、夢中になってくれませんか……」
拗ねたようにつぶやくと、前原は富森をすぐ上から見下ろした。
闇の中でもぼんやりと彼の目が開いているのがわかる。
前原は唇で彼の瞼にそっと触れた。
「私がこんなに……あなたに夢中なのに」
熱い吐息とともに彼はやさしいくちづけを繰り返す。
「どうして……」
唇にたどり着いて前原の声は途切れた。
甘えるようなキスをしたかと思うと、彼はいきなり激しくそこかしこに唇をつける。
……気まぐれで情熱的な前原の愛撫を富森は黙って受け止めていた。