◆旅順(七)〜続き


欲望がひとしきり過ぎ去り、彼は息も荒く富森の上に折り伏した。
そんな彼の頭を富森はやさしく撫でてやる。
前原の腕から力が抜けていく。
(ごめん、富森さん……)
前原は富森の胸に頬をつけたまま、固く目をつぶった。
快楽が去った後は、申し訳なさときまり悪さが彼の心の中に広がる。
(あなたはこういうことに無縁の人なのに……)
そんな前原の心のうちがわかるのか、富森は彼をあやすように撫で続けていた。


……私だって恥ずかしいですよ、前原さん。あなたに翻弄される赤裸々な姿を見せているんですから。実際女性との交渉よりも……と思わんでもない。男であっても、あなたは……。
富森は前原の背をやさしく撫で下ろしていた。
その上気した、きめ細かな熱い肌。
富森の胸の上に吐き出される彼の切なげな熱い吐息。
……前原さん……あなたは魅惑的だ。背徳的であっても、私はあなたの魅力に抗し切れない。
前原の背を撫でる手を止め、富森は闇に視線を泳がせた。
……あなたの気まぐれ、不安定さ。あなたは私を不安にさせる。なのに、なぜこんなにも惹きつけられるのか。
愛撫の手を止められて心細くなったのか、前原がぎゅっとしがみついてきた。
富森はそのまま彼を両腕でしっかりと抱きしめてやった。


闇の中で時間がゆっくりと過ぎていった。
やがて富森の胸の上で前原がふうっとため息をついた。
「……どうしたのです?」
富森は静かに訊いてやった。
「窓を閉めてきます。寒いんでしょう?」
前原は身を起こした。
ベッドから下り、夜風にカーテンが揺れている窓に近づく。
窓からの淡い光に彼のすらりとした影がくっきりと浮かび上がった。
彼は窓を閉めた。
外からの物音が遮断され、部屋の中は急に音がなくなった。
前原はベッドの足元に落ちていた毛布を拾い上げて、富森の横に置いた。
「ああ、すみません」
富森は毛布を受け取って礼を言った。
前原は床に散らばったシャツやズボンを拾い集めると、暗がりでテキパキとたたみだした。
「ああ、自分でやりますから」
富森が恐縮してベッドから飛び降りた。
「いいですよ、十年前には毎晩やらされたんだから」
兵学校の消灯前の巡検では、当直監事に付き従う週番生徒が三号生徒(最下級生)のたたんだ衣服を棒で床に叩き落していくことがある。
三号生徒は消灯後の暗闇の中でゴソゴソとまた丁寧に衣服をたたみ直す……入校直後のシゴキのようなものである。
……ジュンケーン、オワーリ……
遠い廊下の向こうから聞こえてくるそんな当直下士官の声が、前原の記憶に甦ってくる。
「前原さん、服の皺が気になるのでしたら灯りをつけてきちんとたたみましょう。なにも暗がりでしなくとも」
富森が前原の横に屈んで一緒に服を拾った。
「ふふ、別にそういうわけじゃ……。習い性というのは困ったものですね。つい拾ってたたんでしまう」
前原はおかしそうにくくっと笑った。
と、突然横の富森にしがみつく。
「どうしたんです?」
富森が驚いて彼を抱きとめた。
「……」
何も答えず、前原はただ富森にすがりついていた。
富森は重ねては訊かず、彼も黙って前原を抱いてやっていた。


暗闇に目の慣れた富森には、前原の顔がぼんやりと見える。
淡く光って見える前原の目。
彼は闇の中に何を見ているのだろう……富森は思いをめぐらす。
富森は意を決して枕もとの灯りをつけた。
パッと明るい光が灯り、ふたりとも眩しそうに顔をしかめた。
前原は明かりから顔を背け、片手で目を覆っていた。
「前原さん……」
富森は心配そうに呼びかけると、彼を自分のほうに向かせた。
前原の青みを帯びた瞳が富森を見つめた。
「すみません。あなたが泣いているのではないかと心配になって」
富森は彼の頬に当てていた手のひらを下ろした。
「そんな。どうして私が泣かなくちゃいけないんです?」
前原が微笑む。
その寂しげな微笑に富森はまた心が痛んだ。
心配そうに自分を見守る富森に再び前原はもたれかかる。
「ちがうんです。ただ……」
前原は途中で言葉を切り、富森の肩に顔を伏せた。


……ただ?
富森は首を少し傾けて胸元の前原の表情を見守る。
なぜ彼がこんなに寂しげな目をするのか、わからない。
泣いているんじゃないかと心配になったほど、彼の素振りは唐突で理解しがたかった。
……私が何か無神経なことをしたのだろうか?
富森は心配になる。
この感受性の強い青年は、たしかに何か心に鬱したものを抱えている。
……どうしてやればいいのだろう?
前原を見ていると、今にもどこかへ走り去ってしまいそうな気がして不安になる。
もう落ち着いたようだが、寂しそうな目の色は変わらない。
腕の中の寂しそうな前原を見守り続けていると、ふと彼が目を上げた。
目が合うと、弱々しく彼は微笑んだ。
富森は困ったような顔になった。
前原の笑顔はときどき透明すぎる。
はかなげな寂しげなその笑顔の意味がわからなくて、いつも富森は困惑するのだった。
……なにが寂しいのだろう? こうして抱いていても、あなたの寂しさは紛れないのだろうか?
富森は腕に力を込めて前原を抱きしめた。
「あ……」
意外そうに前原が小さな声を上げた。
ほのかに血の気が頬に上がる。
前原の瞳に熱い光が戻った。
……ああ、この瞳の意味なら私にもわかる。こうすることであなたの気が紛れるなら……。
富森は静かに頭を傾けると彼の唇を吸ってやった。


私はあなたの心の奥の虚無が恐ろしい。
いつかそれがあなたを破滅させたりしないかと心配になる。
あなたの暗い捨て鉢な表情は、いずれ潜水艦勤務に戻ることで消えてしまうと信じたい。
だが、あなたが見せる寂しい儚い微笑は……。
あなたの笑顔はなんというか……まるでこの世の人ではないようだ。
諦念か? 自暴自棄か?
何があなたにそんな顔をさせる?
あなたはいったい何を胸に秘めている?
それともすべて私の思い過ごしか?
……富森は彼の唇からいったん離れると、腕の中の前原に見入る。


……あなたが愛しい。
富森はスタンドの淡い光の中に浮かぶ凄艶な面差しに、真摯な思いを込めて見入っていた。
薄く唇を開け、眉を寄せた、その切なげな甘い表情はあまりにも官能的すぎる。
離れた唇の続きを求めるように、前原が薄く目を開けた。
青みを帯びた目は濡れ濡れと淡い光を受けて輝いていた。
「嬉しいな……あなたからしてくれるなんて」
そう、はにかみながら微笑む眼差しが富森には堪らなくまぶしかった。
「ねえ富森さん……もう一度」
前原が半眼になり、顔を寄せてくる。
「あなたからしてください……」
低く甘えた声に富森は従う。
前原の熱い唇に自分から重なっていく。
しなやかな鋼のような前原の肢体がゆっくりとのけぞっていく。
……それであなたの気が晴れるなら……。私はもうあなたに魂を奪われてしまっているのだから。
富森は片手でスタンドの灯りを消した。
再び濃い闇に戻った部屋の中に、濃密な気配だけが立ち込めた……。