◆帰さない


「前原さん……」
枕に頬をつけて眠る青年に私はそっと呼びかけた。
彼の寝顔を私は覗き込む。
少し受け口気味の口元がほんのりと笑っている。
幼子のように無邪気な寝顔だ。
起こしたくはなかったが、黙って帰るわけにもいかない。
「前原さん」
そっとその肩に手をかけて、もう一度呼びかける。
彼がやっと身動きした。
「前原さん、起こしてすみません。私は先に帰ります」
「……うん……?」
うっすらと目を明けると彼は私を認めて笑いかけた。
無防備で透明なその笑顔に、私はいつも胸が締め付けられるような心地がする。
「ふふ」
彼はまた目を閉じると私の背に腕を回して抱きついてきた。
どうもまだ寝ぼけているようだ。
私の言葉は彼の耳に入ってはいまい。
「……先に帰ります」
もう一度私は彼にそう伝えた。
今度は聞こえたはずなのに、彼は私を抱く腕に力を込めた。
そのまま私を自分の胸の上に抱き寄せ離そうとしない。
「前原さん」
私は彼の腕を振り解こうとした。
しかし彼はそれを許さず、そのまま唇を求めてくる。
まただ。
私を引きとめようとしている。
私だってなにも狭い艦にさっさと帰りたいわけではない。
帰らなければならないから、帰ろうとしているのに。
それをわかっていて、どうして私を困らせるようなことを……。
彼は強引に私を引き寄せた。
彼は熱い唇を強く押し付けると、いきなり舌を割り入れてきた。
「……ん……」
いきなりの深いくちづけに私は面食らった。
さっきまで熟睡していた男がこんなくちづけをするものだろうか?
驚く私の隙を付いて、彼は私をしっかりと抱きこんでしまった。
……絡みつくような執拗なくちづけは続く。
こういうときの彼はひどく攻撃的だ。
彼の唇と舌に私は翻弄され、引き込まれてしまう。
性急な貪るような彼のくちづけは強い快感と刺激を私にもたらした。
……応えずにはいられない。
絡み合い、交差する熱い塊。
せわしない、舌の動き。
熱っぽく私を抱きしめ縋りついてくる彼の腕。
……帰さないつもりだ、彼は。


     *      *      *


彼は見ている。
目を見開いて、私を見ている。
私の表情から何ひとつ見落とさぬよう、じっと見守っている。
私と目が合っても、彼はたじろがない。
かえって私の目を食い入るようにのぞきこんでくる。
……見ないでくれ。
彼は楽しんでいる。
私がもう逃げられないことを知っている。
私の精一杯なささやかな抵抗を楽しんでいる。
ここまでくれば、最後に勝利を収めるのが自分であることを彼は知り抜いている。
そして、その手段も彼は熟知している……。
彼の目が光っていた。
獲物をいたぶる猫のようだ。
……好きにすればいい。
私は目をつぶり、戦いを放棄した。
私が耐えれば耐えるほど、彼のいたぶりは激しくなるのだから。
……もう、いい。あなたの勝ちになさい。
降伏したとたん、責め苦はたちまち甘美なそれに変わる。
耐え難い感覚が一斉に私を襲い、私は苦悶に似た声を漏らす。
暖かい泥の中をのたうつようにして、私は最期の時を迎えた。


     *      *      *


不安そうなまなざし。
「ねえ、どうしたんです?」
押し黙ったままの私に、彼が不安げに声を掛けてきた。
「あなたの思い通りになったでしょう……」
私の声はいつもより低くなっていた。
「そんな意地の悪い言い方をしなくったって」
私の言葉に彼は申し訳なさそうに目を伏せた。
「帰りそびれてしまった」
「……」
「朝までありませんよ、定期は」
「怒ってるんですか?」
ついっと彼は私から離れ、暗い顔になって横を向いた。
そう、私は少し怒っている……しかし、私も悪いのだ。
彼の誘いをきっぱりと退けられなかった私がいけない。
「怒ってませんよ」
「ほんとに?」
「ええ」
彼は拗ねている。
いや、拗ねたふりをしている。
これも一種の誘いだ。
わかってはいるが。
私の手を彼は待っている。
私が彼の肩に手をかけるのを。


「前原さん」
そう呼びかけて、私はあなたの望みどおり、あなたの裸の肩にそっと手を置く。
ほっとしたように、振り返って私を見るあなたの目。
私はそんなあなたを抱き寄せる……。
あなたを苛めようなんて気はありませんよ。
あなたは私を引き止めることに成功した。
私はあなたに負けた、それだけのことです。
……あなたの寝癖のついた髪を、私は無言で優しく撫でつける。
あなたはくすぐったそうに微笑むと私にぎゅっとしがみつく。
さあ、何を言って欲しいんです?
どうして欲しいんです?
ご希望通り、これから朝まで一緒に過ごすんですから。
……私はあなたに振り回されっぱなしだ、最初から。
気まぐれで奔放な蒼い目のあなたに。