◆夕立


めっきり緑の濃くなったアカシアの並木がざわざわと葉裏を見せて揺れていた。
まだ日没まで時間がありそうなのに、あたりはすっかり黄昏時のように光を失っていた。
雨が近い。
雨気を含んだ生暖かい突風が薄暗くなった旅順の街を吹き抜けていく。
いよいよ降り出しそうな空模様に、荷を畳んだ行商人が小走りで大通りを横切っていった。
やがて大粒の雨粒が地表を叩きだし、乾いた石畳はたちまち雨粒でまだらになり、あっという間に激しい驟雨(しゅうう)がやってきた。
天がひっくり返ったかのような激しい雨の中を、悲鳴を上げて走り抜けていく通行人……。
旅順の街並はすさまじい雨の飛沫に掻き消され、激しい雨音に包まれていた。


「ああ……凄い降りだ」
雨に叩きつけられた土埃のにおい。
湿っぽいそのにおいをかぎながら、前原は窓枠に手をかけて雨に白く霞む大通りを見下ろしていた。
前原の言葉に富森も窓のそばに歩み寄って外の様子に目をやった。
「この降りじゃ外に出られませんね」
いましがた夕食を摂りに出かけようかどうか、ふたりで話していたところだ。
「あなたの言うとおりに先に食事に出ておけばよかった」
富森を振り返って、前原は言葉を継いだ。
「いいえ、外に出ていたら確実に途中で降られています。出なくてよかったですよ」
富森が穏やかに笑って首を振った。
「ふふ……」
富森らしい言葉に前原は微笑んでみせた。
本当は食事などどうでもいい。
それよりはやく富森を抱きたかった。
土砂降りの夕立に降り込められてしまったのは、前原にはかえって好都合といえた。


驟雨を閃光が切り裂いて稲光が走った。
はっとふたりが空を見上げた。
少し間をおいて雷鳴が轟く。
「雷が来ますな」
「ええ」
また空が光る。
そして、雷鳴。
「雰囲気があっていいな」
すっかり暗くなった部屋が、いまや間断なく稲光に照らされる。
「なんだか、気分が出ますよ……」
そんなことを前原は富森の耳元に囁きかけた。
前原の口元は笑っているが、目は妖しい光を湛えている。
こういうとき、どう振舞えばいいのか富森は毎度対応に困惑する。
嫌ではないが、あまりありがたくもない。
はっきりいって少しこわい。
貪欲な前原もこわいが、だんだんとそれに慣らされていく自分がもっと怖い。
富森はぎこちなく前原から視線を逸らした。
「うふふ」
……いいかげん慣れてくださいよ。
前原は短く笑って、すました顔でシャツのボタンをはずしていった。
なめらかな肌がシャツからチラチラとのぞく。
富森はそれを横目で見て、また狼狽して視線をはずす。
稲光が難しい顔つきになった富森の横顔を青白く照らした。


……そうしていると、似ているな。
前原は前原で、そんな彼の横顔に心を奪われてしまう。
富森の額から眉の辺りや厳しい目つきが、兵学校の教官室で生徒の提出物を読むときの大石教官の横顔にどこか似ている。
『前原か、まあそこに座れ……』
レポートから目を上げずに、大石はそばの椅子を指差したものだ……。
……ああ大石教官、俺はどんなにか切ない思いであなたを見つめただろう。
あなたとふたりきりの夕方の教官室で、息を殺してあなたの横顔に見入っていた。
あなたを目の前にして、俺がどんなに熱い気持を抑えていたか、どんなに切なく苦悩したか。
――前原は富森の横顔を凝視する。
当時の切ない思いがよみがえり、前原の目が細く苦痛に歪められた。
……大石教官、あなたは本当に何も気づかなかったのですか? 俺があなたをどんな目で見ていたか。
尊敬するあなたに邪(よこしま)な思いを抱く自分に、俺はつばを吐きかけたかった。
それでも、あなたを激しく思うことを止められなかった。
――何気ない顔で脱いだシャツを椅子の背に投げかけると、前原は一歩富森に近づいた。
前原の目には獲物を前にした狩人のような、危険な淫蕩な笑みが薄く浮かんでいた。
……俺はもう平気で自分の欲望に正直になれる。
大石教官、あなたにできなかったことを、今は遂げることもできる……。
いや、ちがう!
俺は富森さんをそんなつもりで抱きたいわけではない。
――前原は一瞬目を閉じ、富森に大石の面影を追う自分の心を強く打ち消した。


「……こっちを向いてくださいよ」
前原は富森に低く声をかけた。
……でないと、また大石教官をあなたに重ねてしまう……あなたをあなたとして愛したいから、こちらを向いてください。
「富森さん、頼むからこっちを向いてください……」
重ねての懇願に、ちらりと富森が視線を前原に走らせた。
前原は切実な思いを押し隠して妖艶に微笑んでみせた。
「向こうばかり向いて、私がイヤになったんですか?」
「またあなたは極端なことを」
富森が眉をひそめて前原に向き直った。
「そう僻みたくもなりますよ、そんなにそっぽばかり向かれては」
「む……」
渋い顔つきになった富森の首に、前原はゆっくりと腕を巻きつけた。
前原の口もとはほほえんでいるが、目は違う。
その瞳には真剣な色が浮かんでいた。
富森は彼の瞳の奥をのぞきこんだ。
彼の表面の妖艶さに騙されてはいけない。
前原に向き合うときは、その目を見なくてはいけない。
……彼は何を思っているのだろう……? 彼の瞳は正直なのだから……。
ぱっと空一面に稲光が走ったとたん、凄まじい雷鳴がとどろいた。
空気を切り裂く轟音にふたりは思わず身をこわばらせた。


まだビリビリと窓ガラスを震わせる雷鳴の余韻の中で、前原は深く息をつくと富森に身体をもたせかけた。
「……頭の上に落ちたかと思った」
堅く骨ばった富森の肩に、前原は甘えるように額を乗せた。
「近所に落ちたみたいですね」
「……すぐ近くかな」
「さあ……どうやら雷雲が真上に来ましたね」
前原の背をそっと抱いて富森が静かに言った。
「白状すると子供の頃私は雷が怖くて……」
富森に抱かれたまま、前原はククッとおかしそうに笑った。
「夏の午後、入道雲がわいて空が暗くなってくると、一目散に家に逃げ帰ったものです。臆病な子供でしょう?」
稲光と同時に耳を聾するような雷音が頭上で炸裂した。
前原は思わず富森の背にしがみつく。
「うわっ」
前原は顔を富森の肩に伏せたまま小さく声を上げた。
「……じつは今でも雷が苦手なんですよ。雷鳴も嫌だけど、稲妻が自分に向かってくるような気がして」
富森は思わぬ告白に口許に微笑を浮かべた。
「それはまた……罪人(つみびと)のようなことを言われるのですな」
「フフ……そうかもしれない。罪の意識ならありますから」
そう言うと前原は顔を上げて、すがるような目を富森に向けた。
こころなしか、その顔は青ざめて見える。
「罪……?」
富森の目が蒼い瞳を注意深く探る。
「何のことです?」
富森の問いに前原はただ黙って瞳を見開いていた。
懇願するような切ない瞳が富森に慰めを求めて揺れ、やがてゆっくりと閉じられた。
富森は求められるままに、前原が差し出した唇にそっと自分の唇を重ねた。
窓辺でくちづけを交わすふたりのシルエットが稲妻に一度二度と青白く浮き上がった。


「……」
前原が答えたのは、ふたりの唇が離れてしばらくしてからだった。
「え?」
前原の唇が再びかすかに動いたが、雨音にかき消されて言葉は聞き取れなかった。
聞き取ろうと顔を近づけた富森に、前原は乱暴に唇を合わせた。
――激しい雷雨が旅順の街を荒れ狂っていた。
大気をびりびりと震わせる雷鳴はふたりの気配をかき消し、稲妻だけがときおりふたりの輪郭を浮かび上がらせていた。
開け放されたままの窓辺では吹き込む風雨にカーテンがばたばたとなぶられていた。

     *      *      *

夜に入って雨は小降りになり、今は遠い雷だけが墨を流したような空をときおり不気味に光らせている。
前原はけだるげに全身を夜気に晒したまま、遠雷に光る窓を見上げていた。
「……雷が気になりますか?」
そっと前原の肩に手をかけて富森が訊いた。
「……大連ですね、あの方角は」
窓を見上げたまま前原がつぶやいた。
「そうですな……」
富森がもの静かな声で応じた。
思い出したように薄紫に夜空が光る。
あの激しい夕立は大連の街に移ったのだろうか……ふたりは黙って遠雷を眺めていた。
「……さっきの話ですが、あなたは雷に打たれるような覚えがあるのですか?」
富森は探るように彼の目をのぞきこんだ。
うす闇の中で前原の目がきらきらと僅かな光を捉えて反射していた。
夜行性の獣のような妖しい瞳の輝きに、富森は魅入られたように前原の背に腕を回し、彼を両腕に抱き取った。
少し間をおいて前原の白い歯がちらりと見えたかと思うと、彼は富森の肩に顔を押しつけてしまった。
「あったら、どうしますか?」
少しくぐもった低い声が富森に問いを返した。
「……あなたは私を試すようなことばかり」
嘆息とともに富森は前原を抱く腕に力を込めた。
「ふふ、女々しいですね、どうも」
「……いいえ、どうであっても、私はやはりあなたをほってはおけない……」
富森は優しい手つきでそっと前原を上向かせると、乱れた髪をてのひらで撫で付けてやりながらもう一度彼の目をのぞきこんだ。
潤んだ瞳が寂しげにほほえむ。
富森の胸が痛んだ。
……愛し合ったばかりだというのに……なんて寂しそうな目をする……。
富森は前原の裸の背を黙ったまま抱きしめてやった。

     *      *      *

「支那では嫁を寝取った舅が雷に打たれて死ぬ、ということになっています」
「へぇ? で、支那では落雷事故はよくあるんですか?」
「さて、それは」
「ククッ、じゃ支那にいる限り、とりあえず私は安心てことですね」
「そうなりますか」
「ククク……」
情熱が過ぎ去ったあとは、暗闇の中に並んで横たわり、ふたりはとりとめのない会話を楽しむ。
富森もこの頃では前原とのこうした時間に慣れてきたのだろう、打ち解けた様子をみせる。
普段は寡黙ながら、富森は海軍軍人らしく雑多な小話に堪能だった。
ベッドの中で前原はまるで子供のように目を輝かせて、飄々(ひょうひょう)とした富森のよもやま話に聞き入るのだった。
「戦国に戸次鑑連(べっきあきつら)という大将がおりまして……彼は少年時代、大樹の陰で雨宿りしていたところ落雷の難に遭ったそうです。そのとき彼は大樹に落ちた稲妻の中にいた雷神を切り伏せました……その刀は雷切(らいきり)と呼ばれて彼は生涯手放さなかったそうな……私の郷里に伝わる伝説ですよ」
「雷切か、勇ましいな」
「しかし、刀という金物を使って雷さまに立ち向かったので、彼は感電して足が不自由になったといいます」
「クク……なんて大将ですって?」
「戸次鑑連。立花道雪といったほうが通りがいいですかな?」
「その名前なら聞いたことのあるような……。もしかして、ご先祖ですか?」
「いいえ、残念ながら」
富森は微笑んだ。
そんな富森の顔を前原はつくづくと眺めた。
「でも、顔つきといいこのひげといい、甲冑を着ければ戦国武将にすぐなれそうだ」
言いながら前原は富森の細長いひげに手を伸ばしてやさしく触れた。
「たしか戦国武将には衆道(しゅどう)は付き物だったんでしょ?」
ひげから頬へ、そしてまた唇へと彼の指がさ迷いだし、前原は妖しく笑うと接吻のために顔を近づけた。
「だから、風雅な嗜みなんじゃないかな? こういうのも……」
「む……」
唇が触れあい、前原は楽しげに目を閉じると、その感触と反応をゆっくりと確かめだした。
長い接吻――前原は息をつくと薄く目を開いて満足そうに微笑み囁きかけた。
「……ふふ、こんなにキスの上手な武将なら喜んで――」
そう言いさしてまた前原は熱っぽく富森の唇を求める――
「……ねえ……どうしてこんなひげを生やすことにしたんです?」
濃密な接吻の合間にまたもや前原が囁きかけた。
「……さっきから……キスするのかしゃべるのか、どちらかにしてください」
「気が散りますか?」
「……多少」
「ククク」
前原は楽しげに喉だけで笑うと再び接吻に取り掛かった。
窓の外では夕立の名残の雨が蕭蕭(しょうしょう)として降り止まず、思い出したようにときおり強い風がカーテンを揺らしていた。