◆旅順(八)
久しぶりに大石の夢を見た。
あれは江田島の大講堂の桜だろうか。
桜の幹に手をかけて、大石が微笑んでいた。
……大石教官!
軍帽の庇の下で微笑んでいる、力強い、人を惹きつけてやまない大石の温かな目。
可愛くてならぬ若い弟を見るような、そんな愛情のこもった大石の笑みがこちらに向けられていた。
嬉しくて懐かしくて、涙がこぼれそうになった。
『前原、少し歩かないか?』
ふっと笑って先に立って歩き出した、大石の精悍な横顔そして広い肩。
……待ってください! 大石教官!
夢の中の前原の足はなぜかうまく動いてくれなかった。
早く後を追わねばと焦るうちに、すぅっと大石の姿はかき消えてしまった。
桜並木も消え、薄暗い空間に前原ひとりがぽつんと寂しく残されていた……。
目を覚ますと、部屋の中は灯りがついていた。
富森が来るのを待つ間に眠ってしまったらしい。
前原が眠っていたベッドの端に富森が腰をかけて、何かの書類を読んでいる。
前原は目が覚めたばかりのぼんやりした意識のまま、書類に目を落としている富森の横顔を見ていた。
……やはり似ている。
濃い一文字の眉の下の鋭い眼光、引き締まった意志の強そうな口許。
夢で見た慕わしい大石の横顔が微妙に重なる。
前原の視線に気がついたのか、富森が目を上げた。
「ああ。よく眠ってましたね」
じっと自分を見つめていた前原に富森は穏やかに微笑みかけた。
その落ち着いたものさびた声に、かえって前原の心は騒いだ。
どこか大石に似た風貌であっても、富森の声は響きも抑揚も大石の声とはまるで異質だった。
あの感情豊かな大石の声……低くて深い暖かな響きを前原は耳の底に甦らせる。
夢で見た大石の面影が浮かび上がり、また夢の向こうに遠ざかっていく。
夢はしょせん夢でしかない。
前原の切なげな表情に富森は真顔になり、書類を床に置くと心配そうに前原の顔をのぞきこんだ。
「どうしたんです?」
「あ、いえ……今日は遅かったんですね」
ベッドから身を少し起こすと前原は持ち前のおっとりとした優しい笑顔になった。
「ええ。会合が長引きまして」
「起こしてくれればよかったのに」
「いや、気持ちよさそうに寝ておいででしたから」
前原の様子に安心したのか富森はいつもの温顔になり、床に置いた書類を拾い上げるときちんとそろえて黒い書類鞄に戻す。
風呂から上がってまだ間もないのだろう、後ろに撫で付けられた髪にはまだ水気が残っている。
ワイシャツの胸元は上二つのボタンを外したままだ。
富森は潮と汗を流して、さっぱりと涼しげな様子をしていた。
鞄に書類をしまう富森のごつごつした手指の動きを前原は目で追っていた。
骨ばった武骨な手だが、前原にはひどくやさしい富森の手だ。
その手を見ながら、大石のがっしりとした肉厚な大きい手のひらを前原は思い出していた。
大石は課外時間には前原の緊張をよそに、気軽に彼の肩に手を回して陽気に話しかけたりする気さくな教官だった。
古鷹山の駆け足登山で息を切らしていた前原に、笑って手を差し出してくれたこともある。
『なんだ、だらしない。あごが出ているぞ』
彼をぐいっと引き上げてくれた力強い大石の手……。
彼をやさしく慰めてくれる富森の手の動きや感触に慣れ親しみながら、一方で大石のがっしりした大きな手のひらに思い焦がれることをやめられない……。
「今、夢を見ていましたよ」
「夢?」
「ええ、昔の夢をね……」
前原は半身を起こすと、富森に抱きついた。
寝起きの前原は体重をすっかり預けてくるせいだろう、ひどく重たく感じられて富森は彼をしっかりと抱え直した。
前原は優しい笑みを浮かべていても、蒼い瞳の奥は寂しげだった。
ぎゅっと富森の背を抱いたまま、前原は身動きしない。
(どうしたんだろう?)
よくわからないままに、富森は彼を抱きとめた。
……富森さん、あなたが好きだ……でも、あなたは大石教官ではないんだ。
富森のワイシャツの背中を前原は強く抱く。
たとえ夢の中であっても大石に逢えたことが嬉しかった。
……あの人を抱きたかった、せめて夢の中では。こうやって……!
富森の肩に顔を埋めて、前原は力いっぱい彼を抱きしめる。
……俺の望み……あの人を抱きたい! 抱かれたい!
夢の中で前原を見つめた大石の目はあんなに優しかったではないか。
親身な愛情に溢れていたではないか。
……あのまま俺を抱き寄せてくれたなら、俺は……。
富森は黙って前原を受けとめていた。
彼が唐突に抱きついてくるのは珍しいことではない。
気にはなるが、何も言わないものを無理に聞き出そうとは思わなかった。
ただ、彼の気が納まるまでこのまま抱いていてやるつもりだっだ。
富森の清潔な白いワイシャツと肌にかすかに残る石鹸の香り。
ワイシャツの生地に前原は猫のように顔をこすりつけた。
そっと富森の手のひらが、そんな彼の髪を優しく撫でてくれる。
ひどく気持ちがいい。
……あなたはどうしてこんなに優しいのだろう。
何も訊かずにこうして彼を慰めてくれる富森は、いったいどういうつもりなのだろう?
「……ああ」
顔を富森の肩に顔を押し付けたまま、前原は切ない吐息をもらす。
優しい富森に甘えながら、遠く離れた大石のことを思う自分はいったい何なのだろうか?
……俺は、ずるい。
しかし、固く閉じた瞼には夢に見た大石の笑顔が浮かぶ。
……辛い。
きつく目をつぶったまま、前原はまた富森の背を抱きしめる。
「ごめん、富森さん」
不思議そうに富森は自分に抱きつく青年のうなじを見ていた。
地上勤務になって半年近く経つのに、まだあまり日に焼けてない前原の肌。
なぜ、謝るのだろう? 何に対して呵責を感じているのだろう?
富森はただ黙って前原の髪を優しく撫でる。
「何も訊かないんですね」
「あなたが私に謝るわけを、ですか?」
いまさら何を聞いたところで、前原への愛情が変わるとは思えなかった。
しかし、話すことで前原の気が軽くなるのならば、聞こうか……そう富森は意を決した。
「……よければ話してください」
そう静かに言って富森は前原の肩に手をやった。
前原が身体を起こして顔を上げる。
そして、ためらいがちに富森の目を見た。
いつもと変わらぬ穏やかな目が前原に注がれていた。
情味に溢れた穏やかな目には混じりけのない思いやりがあった。
話を聞く前から前原の謝罪を受け入れるつもりなのが見て取れた。
……あなたはそういう人なんだ。
前原は胸がいっぱいになって、富森にそっとくちづけた……。